投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月21日(木)12時09分33秒
現在紹介している後深草院と異母妹の前斎宮(愷子内親王)の出来事は、後深草院と亀山院のどちらの子孫が皇統を受け継ぐかという深刻な政治的問題に関する一連の記事の直後に出てきます。
即ち、文永九年(1272)の後嵯峨院崩御の二年後、亀山天皇が皇子の後宇多天皇に譲位したため、子孫の将来に悲観した後深草院が出家を図ったところ、それに同情した北条時宗が斡旋に乗り出し、建治元年(1275)、後深草院皇子の熈仁親王(後の伏見天皇、1265-1317)が二歳年少の後宇多天皇(亀山院皇子、1267-1324)の皇太子になって後深草院も一安心、という時期の出来事です。
この熈仁親王の立太子こそ、後の持明院統・大覚寺統の対立の端緒となった訳ですね。
そして後嵯峨院(1220-72)の正室で、後深草院(1243-1304)と亀山院(1249-1305)の母である大宮院(1225-92)は、後嵯峨院崩御後の政争の中で一貫して亀山院を応援する立場にいて、後深草院とは微妙な関係にありました。
こういう事情を受けて、『増鏡』でも前斎宮を招いての亀山殿での遊宴は母子和解の場として演出されたであろうことが仄めかされているのですが、ま、そういう重要な場面で変な行動をして、後深草院は老尼から「けしからぬ御本性なりや」と評されている訳ですね。
さて、続きです。(井上宗雄、『増鏡(中)全訳注』、p217以下)
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さて御方々、御台など参りて、昼つかた、又御対面どもあり。宮はいと恥しうわりなく思されて、「いかで見え奉らんとすらん」と思しやすらへど、女院などの御気色のいとなつかしきに、聞えかへさひ給ふべきやうもなければ、ただおほどかにておはす。けふは院の御けいめいにて、善勝寺の大納言隆顕、檜破子やうの物、色々にいときよらに調じて参らせたり。三めぐりばかりは各別に参る。
そののち「あまりあいなう侍れば、かたじけなけれど、昔ざまに思しなずらへ、許させ給ひてんや」と、御けしきとり給へば、女院の御かはらけを斎宮参る。その後、院聞こしめす。御几帳ばかりを隔てて長押の下へ、西園寺の大納言実兼、善勝寺の大納言隆顕召さる。簀子に、長輔・為方・兼行などさぶらふ。あまたたび流れ下りて、人々そぼれがちなり。
「故院の御ことの後は、かやうの事もかきたえて侍りつるに、今宵は珍しくなん。心とけてあそばせ給へ」など、うち乱れ聞こえ給へば、女房召して御箏どもかき合はせらる。院の御前に御琵琶、西園寺もひき給ふ。兼行篳篥、神楽うたひなどして、ことごとしからぬしもおもしろし。
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井上訳は、
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さて、御方々(後深草院・大宮院・前斎宮)はお食事などを召しあがって、昼ごろまた御対面などがある。斎宮はたいへん恥かしくつらく思われて、「どうして上皇に対面申せましょう」とためらわれたが、大宮院などの御気持がたいそうおやさしくて、御辞退申し続けることもできないので、ただおっとりした態度でおられた。今日は後深草院のおもてなしで、善勝寺大納言隆顕が、檜破子のような物を、いろいろとたいそう見事に調進した。三献ほどは各自めいめい召しあがる。
その後、院が「このままではあまり興がございませんので、恐れ多いのですが、昔の皇子時代と同様にお杯をいただけませんでしょうか」と大宮院の御様子をおうかがいになると、大宮院のお杯を斎宮がいただく。その後で院が召しあがる。御几帳だけを隔てとして、長押の下に西園寺大納言実兼、善勝寺大納言隆顕を召される。簀子に長輔・為方・兼行などが伺候する。何度も杯が下座へ流れて、人々は酔って戯れがちである。
院が「故後嵯峨院崩御の後は、こういうこともまったく絶えていましたのに、今宵は珍しいことです。くつろいで一曲お奏でください」など酔い心地で申しあげなさると、大宮院は女房を召して御箏などを合奏される。院は御琵琶、西園寺実兼もお弾きになる。兼行は篳篥で神楽をうたいなどして、大げさな催しでないのも趣がある。
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となっています。
善勝寺大納言・四条隆顕はそれなりに重要な役として登場していますね。
現在紹介している後深草院と異母妹の前斎宮(愷子内親王)の出来事は、後深草院と亀山院のどちらの子孫が皇統を受け継ぐかという深刻な政治的問題に関する一連の記事の直後に出てきます。
即ち、文永九年(1272)の後嵯峨院崩御の二年後、亀山天皇が皇子の後宇多天皇に譲位したため、子孫の将来に悲観した後深草院が出家を図ったところ、それに同情した北条時宗が斡旋に乗り出し、建治元年(1275)、後深草院皇子の熈仁親王(後の伏見天皇、1265-1317)が二歳年少の後宇多天皇(亀山院皇子、1267-1324)の皇太子になって後深草院も一安心、という時期の出来事です。
この熈仁親王の立太子こそ、後の持明院統・大覚寺統の対立の端緒となった訳ですね。
そして後嵯峨院(1220-72)の正室で、後深草院(1243-1304)と亀山院(1249-1305)の母である大宮院(1225-92)は、後嵯峨院崩御後の政争の中で一貫して亀山院を応援する立場にいて、後深草院とは微妙な関係にありました。
こういう事情を受けて、『増鏡』でも前斎宮を招いての亀山殿での遊宴は母子和解の場として演出されたであろうことが仄めかされているのですが、ま、そういう重要な場面で変な行動をして、後深草院は老尼から「けしからぬ御本性なりや」と評されている訳ですね。
さて、続きです。(井上宗雄、『増鏡(中)全訳注』、p217以下)
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さて御方々、御台など参りて、昼つかた、又御対面どもあり。宮はいと恥しうわりなく思されて、「いかで見え奉らんとすらん」と思しやすらへど、女院などの御気色のいとなつかしきに、聞えかへさひ給ふべきやうもなければ、ただおほどかにておはす。けふは院の御けいめいにて、善勝寺の大納言隆顕、檜破子やうの物、色々にいときよらに調じて参らせたり。三めぐりばかりは各別に参る。
そののち「あまりあいなう侍れば、かたじけなけれど、昔ざまに思しなずらへ、許させ給ひてんや」と、御けしきとり給へば、女院の御かはらけを斎宮参る。その後、院聞こしめす。御几帳ばかりを隔てて長押の下へ、西園寺の大納言実兼、善勝寺の大納言隆顕召さる。簀子に、長輔・為方・兼行などさぶらふ。あまたたび流れ下りて、人々そぼれがちなり。
「故院の御ことの後は、かやうの事もかきたえて侍りつるに、今宵は珍しくなん。心とけてあそばせ給へ」など、うち乱れ聞こえ給へば、女房召して御箏どもかき合はせらる。院の御前に御琵琶、西園寺もひき給ふ。兼行篳篥、神楽うたひなどして、ことごとしからぬしもおもしろし。
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井上訳は、
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さて、御方々(後深草院・大宮院・前斎宮)はお食事などを召しあがって、昼ごろまた御対面などがある。斎宮はたいへん恥かしくつらく思われて、「どうして上皇に対面申せましょう」とためらわれたが、大宮院などの御気持がたいそうおやさしくて、御辞退申し続けることもできないので、ただおっとりした態度でおられた。今日は後深草院のおもてなしで、善勝寺大納言隆顕が、檜破子のような物を、いろいろとたいそう見事に調進した。三献ほどは各自めいめい召しあがる。
その後、院が「このままではあまり興がございませんので、恐れ多いのですが、昔の皇子時代と同様にお杯をいただけませんでしょうか」と大宮院の御様子をおうかがいになると、大宮院のお杯を斎宮がいただく。その後で院が召しあがる。御几帳だけを隔てとして、長押の下に西園寺大納言実兼、善勝寺大納言隆顕を召される。簀子に長輔・為方・兼行などが伺候する。何度も杯が下座へ流れて、人々は酔って戯れがちである。
院が「故後嵯峨院崩御の後は、こういうこともまったく絶えていましたのに、今宵は珍しいことです。くつろいで一曲お奏でください」など酔い心地で申しあげなさると、大宮院は女房を召して御箏などを合奏される。院は御琵琶、西園寺実兼もお弾きになる。兼行は篳篥で神楽をうたいなどして、大げさな催しでないのも趣がある。
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となっています。
善勝寺大納言・四条隆顕はそれなりに重要な役として登場していますね。
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