1は3文字であとは1文字。
51-60
へいぜさじゅにも せよこうだ
平城 嵯峨 淳和 仁明 文徳 清和 陽成 光孝 宇多 醍醐
[解説]
1.光孝天皇は、藤原良房のあとを継いだ太政大臣藤原基経に支持されて即位し、884(元慶8)年に基経をはじめて関白とした。
2.宇多天皇が即位した際、基経は、同天皇が即位にあたって出した勅書に抗議して、888(仁和4)年、これを撤回させ(阿衡の紛議)、関白の政治的地位を確立した。しかし藤原氏を外戚としない宇多天皇は、基経が死ぬと摂政・関白をおかず、学者菅原道真を重く用い藤原氏に対抗させた。
3.つづく醍醐天皇の時、藤原氏は策謀を用いて道真を政界から追放した。
4.この後の10世紀の前半は、醍醐天皇につづいて村上天皇が親政をおこない、これはのちに「延喜・天暦の治」とたたえられた。しかし親政の合間にも、藤原忠平が摂政・関白をつとめ、太政官の上に立って実権をにぎった。
〈2014立大・現代心理(心理)・コミュ福祉(コミュ政策・観光(交流文化)・経営(経営・国際経営)
5.これに関する出来事a~dのうち、もっとも古いものを解答欄の1に、次に古いものを並に、以下同じように4まで年代順にマークせよ。」
a.宇多天皇は摂政・関白を置かず、菅原道真を登用した
b.光孝天皇は藤原基経を実質的に関白とした
c.藤原忠平が朱雀天皇の摂政・関白となった
d.藤原頼通が約50年にわたって摂政・関白をつとめた
(答:bacd)〉