1940年3月 津田左右吉『神代史の研究』など筆禍事件。
退くよ摩擦だ 神代史。
1940年 津田左右吉 『神代史の研究』
[point]
1.津田左右吉は、『神代史の研究』を著した。
沙汰ゴミ納屋ハオ はか熾烈。
[point]
1.おもな学問思想弾圧は、33年滝川幸辰→35年美濃部達吉→37年矢内原忠雄→38年2月大内兵衛ら→38年10月河合栄治郎→40年津田左右吉の順で受難した。
[解説]
1.歴史学の津田左右吉(1873~1961)は、岐阜県出身の歴史学者、早大教授。神話の世界に照明を当てる『神代史の研究』(1924(大正13)年)を著す。『古事記』『日本書紀』に実証的な史料批判を行ったもの。
2.古代史について史料批判を行うことは皇室の歴史を検討することに連なるタブーであった。このため天皇制強化の時流のなかの1939年に、保守派から不敬であるとの攻撃が起こり事件化。神武天皇即位紀元(皇紀)2600年にあたるとされる1940(昭和15)年に、政府により『神代史の研究』などの著書を発禁処分とされ、早大教授も辞職に追い込まれた。1942年には執行猶予付きながら有罪判決をうけた。この一連の事件を津田事件という。
〈2017関西学院大・全学部
問10.下線部n津田左右吉に関して、正しいものを下記より選びなさい。
ア.津田左右吉は、代表的著作『郷土研究』において、日本の農村史を描いた。
イ.津田左右吉は.『古事記』や『日本書紀」の実証的・科学的分析を行なった。
ウ.津田左右吉は、庶民の歴史を重視した『貧乏物語』を書いた。
エ.津田左右吉は、儒教や仏教を外来思想として排除すべきとする『国意考』を著した。」
(答:イ〇、※ア×『郷土研究』は柳田国男、ウ×『貧乏物語』は河上肇、
1916年9月 河上肇、『貧乏物語』
退く色肇 貧乏も。
1916年 河上肇 『貧乏物語』
エ×『国意考』は賀茂真淵)
〈2017慶大・法
[ 38 ]が橿原宮において統治を開始してから2600年目に当たるとされた年は、その意義が朝野を挙げ喧伝された。[ 38 ]が統治を始めたとされる日は、[ 39 ]として、明治の初頭より祝日に定められていたが、それは、[ 40 ]の時代に編纂事業が着手され、奈良時代に完成をみた歴史書に基づくものであった。こうした建国神話を淵源に、記念すべき年とされた2600年の11月に行われた祝賀行事は、提灯行列や音楽行進など盛大なものとなった。しかし、他方において、このような気運は、上記歴史書についての実証的視点から研究を行うのには困難な環境を生み出した。この年の早々、[ 41 ]の一連の著作が発禁処分を受けたのは、その象徴的出来事であった。
(答:38神武天皇、39紀元節、40天武天皇、41津田左右吉 ※原問には選択肢56語あり)〉
〈2017早大・人間
問7 下線部f大正時代に関連して、当時の学問や科学技術をめぐる動向に関する記述として、誤っているものはどれか、1つ選べ。
ア 津田左右吉は、『古事記』や「日本書紀」の文献学的批判を行なった。
イ 本多光太郎は、KS磁石鋼を発明した。
ウ 八木英次は、現在のテレビ用アンテナの原型を発明した。
エ 理化学研究所が、第一次世界大戦の最中に設立された。
オ 和辻哲郎は、『善の研究』を著して独自の哲学体系を打ち立てた。」
(答:オ×和辻哲郎→西田幾多郎)
1911年1月 西田幾多郎『禅の研究』
行くいい禅の 西田来た。
1911年『禅の研究』 西田幾多郎 京都大学
〈2017中央大・法(法国際)
問2.次の説明のうち、下線部①の明六社の結成に加わった人物についてのものにはイ、そうでない人物についてのものにはロをマークしなさい。
a.幕末に薩摩藩からイギリスに留学し、後に初代文部大臣として学校令を公布した。
b.幕末に洋書調所の教官としてオランダに留学し、同地で学んだ国際法に関する『万国公法』を刊行した。
c.『真政大意』を刊行して天賦人権思想を紹介したが、後に、社会進化論の立場から『人権新説』を刊行して天賦人権論を批判した。
d.『古事記』・『日本書紀』に科学的分析を加えて古代史研究に新境地をひらいたが、著書『神代史の研究』について発禁処分を受けた。」
(答:aイ森有礼、bイ津田真道、cイ加藤弘之、dロ津田左右吉)〉
1882年 加藤弘之『人権新説』で天賦人権論を否認し、自由民権運動に反対の立場をとった。
いやや人権 親切か。
1882年 加藤弘之 『人権新説』 社会進化論
〈2017津田塾大(学芸(英文))
[ 11 ]は『古事記』や『日本書紀』の文献学的批判をつうじて古代史に新境地を開き、農商務省の官僚だった柳田国男は、民間伝承や風習を研究する[ 12 ]学の確立に貢献した。」
(答:11津田左右吉、12民俗)〉
〈2016関西学院大学・全学部2/2:「
明治維新とともにヨーロッパの歴史理論が導入され、日本の歴史学も新しい時代を迎えた。政府も正史謳纂事業を開始したが実現せず、やがて修史の実現は[ i ]の史料編纂掛に引き継がれることになった。そのような機運のなか、科学的研究が伝統的な考え方と対立し、筆禍事件に発展することもあった。度重なる対外戦争を経験し、国家主義が高まるにつれて、科学的研究への規制は一層強くなった。『古事記』『日本書紀』に科学的分析を加えた[ j ]の古代研究も弾圧の対象となった。
問8.空欄iに入る機関名を下記より選びなさい。
ア.帝国大学 イ 文部省
ウ.高等師範学校 エ.宮内省
問9.空欄jに入る人名を下記より選びなさい。
ア.大内兵衛 イ.白鳥庫吉
ウ 津田左右吉 エ.羽仁五郎」
(答:問8ア、問9ウ)〉
〈2016関西大・全学部
F 倫理学者の10[ア和辻哲郎 イ西田幾多郎 ウ田辺元]は、西洋哲学を研究するとともに、仏教美術・日本思想史を研究し、『古寺巡礼』『風土』などを著した。歴史学者の11[ア喜田貞吉 イ津田左右吉 ウ安倍能成]は、『神代史の研究』『古事記及日本書紀の研究』『日本上代史研究』などを著し、古代史の科学的解明に貢献した。」
(答:10ア、11イ)〉
〈2016早大・文化構想
問8 下線f津田左右吉にかかわる記述として、誤っているものはどれか。1つ選べ。
ア 国民思想に関心を寄せて日本の歴史を研究した。
イ 『古事記』『日本書紀』の実証的研究で成果をあげた。
ウ 古代史に関する著書が出版法違反に問われ発売禁止となった。
エ 右翼思想家から攻撃をうけ貴族院議員を辞職した。
オ 迫害・圧力により早稲田大学教授を辞任した。」
(答:エ×※議員ではない)〉
〈2016立教大・現心コミュ福観光営
問8.この年(1937年に日中戦争が始まると)の出来事に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dからlつ選べ。
a.津田左右吉の『神代史の研究』の発売が禁止された
b.日本文学報国会が結成された
c.文部省によって『臣民の道』が編集された
d.矢内原忠雄が東京帝国大学を辞職した」
(答:d〇、※a×皇紀2600年の1940年、b×1942年、
1942(昭和17)年5月 日本文学報国会創立。
説くよ文学 報国を。
1942年 徳富蘇峰 日本文学報国会
c×第3次近衛内閣時の1941年)
1941(昭和16)年7月 文部省によって『臣民の道』が編集される。
行く良い臣民 紋章を。
1941年 『臣民の道』 文部省
〈2016明大・政経
国家主義的気運が高まるとともに、(エ)国体論にもとづく思想統制がはかられ、学問の世界でも思想・言論活動に対する弾圧が厳しさを増した。政府は軍国主義を鼓吹し、国体観念の国民への浸透を促すとともに、来るべき総力戦の遂行に備えて、労働者と資本家が一丸となった戦争協力体制の構築に力を注いだ。
問4 下線部エに関して、この時期の思想統制・言論弾圧に関する説明として誤っているものはどれか。A~Eから一つ選べ。
A 文部省は『国体の本義』を発行し、国民に対して国体の尊厳と君臣の大義を説き、日本を天皇中心の家族国家とする運命共同体論を唱道した。
B 津田左右吉の日本古代史に関する実証的研究が、皇室の尊厳を傷つけるものとして批判され、『神代史の研究』などの著書が発禁となった。
C 政府の植民地政策を批判していた東大教授の矢内原忠雄が右翼から反戦思想として攻撃され、辞職を余儀なくされた。
D 自由主義経済学者の河合栄治郎が軍部や政府の政策を批判した著書を発禁とされたうえで、東大教授を休職処分となり、起訴された。
E 大内兵衛、有沢広已、西田幾多郎らの東大教授グループが、人民戦線の結成をはかって政府に反対したとして治安維持法で検挙された。」
(答:E× ※哲学者西田幾多郎は京大教授であり、政府に協力的)〉
〈2016明大・情報
問10 下線部(コ)第二次世界大戦中に関して、もっとも正しいものを、1~4から1つ選べ。
1.1939年、イタリアがポーランド侵攻を開始すると、イギリス・フランスが宣戦布告をし、第二次世界大戦が始まった。
2.教育基本法・学校教育法の公布により、小学校が国民学校となった。
3.近衛文麿内閣下において、大東亜会議が開催された。
4.津田左右吉『神代史の研究』が発売禁止、谷崎潤一郎『細雪』が連載禁止となった。」
(答:4〇。※1×イタリア→ドイツ、2×国民学校→小学校、3×近衛文麿→東条英機)〉