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奈良時代初の入唐者

2018-04-28 | Weblog

 

 仲間は君と ゲイボーイ。


阿倍仲麻呂(あべのなかまろ))(玄(げんぼう))(の奈良時代遣使・吉備真備(きびのまきび))


[ポイント]
1.奈良時代初の入唐者は、吉備真備玄昉(げんぼう)・阿倍仲麻呂の3人である。

[解説]
1.吉備真備(693?~775)は、珍しく蔭位(おんい)によらずに大学を経て役人となり、公卿まで昇進。学業に優れ、717~735年唐に留学、帰朝後は新知識をいかんなく発揮して昇進を重ね、玄(げんぼう)と共に橘諸兄の政権の顧問格となる。藤原仲麻呂により九州の国司に左遷され一時不遇だった。しかし唐末の混乱(安史(あんし)の乱など)という国際情勢緊迫下に真備の軍事および国際知識が必要とされ中央政界に復帰。逆に勢威を失った藤原仲麻呂の乱を平定し、つぎの道鏡政権下でも右大臣に出世し、さらにその失脚後の光仁天皇時代も引き続き右大臣を務め死去。後の菅原道真と並ぶ学者政治家。

2.玄(?~746)、は法相宗の僧で、717~735年唐に留学し帰朝のとき経論(きょうろん)5000巻をもたらした。これらの経論は次々と書写されて流布、日本の仏教信仰確立に多大な貢献をした。玄は、唐で呪術的能力も学んでおり、聖武天皇・皇后光明子をはじめ皇室関係者の病気平癒に活躍し、その威光により仏教界で絶大な権力をふるった。また橘諸兄政権で大仏造営など護国仏教の確立に努めた。藤原仲麻呂により筑紫観世音寺に左遷され、同地で死去。

3.阿倍仲麻呂(698?~770?)は、留学生として717年に入唐。大学に学び科挙に合格(スゴイ!)、任官し要職を歴任。帰国を願ったが許されず、ようやく許されて753年遣唐使一行と帰途についたが、再び長安に戻り玄宗皇帝に仕え、ふたたび要職を歴任し、帰国を果たせず死去。その学識と文才は唐でも知られ、詩人王維李白と交友(これもスゴイ!)。望郷の「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」という歌はよく知られている。

〈2014同志社大・文

「遣唐使たちは、唐から先進的な文化をもたらし、日本に大きな影響をあたえた。とくに帰国した( c )や吉備真備は、のち聖武天皇に重用され政界でも活躍した。」

(答:玄昉)〉

〈2013明大・商

「しかし、天然痘の流行で四子が相次いで病死すると勢力は一時衰え、政権は皇族出身の[ 3 ](684~757)や唐に留学経験のある玄、吉備真備らの主導するところとなった。玄と吉備真備は、[ 3 ]に重用されて活躍したが、d【1)藤原百川 2)藤原武智麻呂 3)藤原緒嗣 4)藤原冬嗣 5)藤原広嗣】は、彼らを除くことを名目に、740年、乱を起したが、敗死した。」
(答:3橘諸兄、d(5))〉

 

 

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西田幾多郎

2018-04-28 | Weblog

1911年1月 西田幾多郎『禅の研究』

行くいい禅の 西田来た。

1911年 『禅の研究』 西田幾多郎 京都大学



[point]

1.哲学の西田幾多郎は、『善の研究』を著して独自の哲学体系を打ち立てた。

[解説]

2017関西学院大・全学部

 a)西田幾多郎らの「京都学派」は、安易な軍国主義・民族主義礼賛にはほど遠かったものの、太平洋戦争中に海軍をつうじて戦争協力を進めた。それは、英米の近代的生き方と大衆文化が世界中に伝播し、各民族が持つべき創造的な民族文化を奪うことを懸念していたからであった。

問1.下線部aの著作を下記より選びなさい。


 ア『経国美談』 イ『古寺巡礼』
 ウ『風土』 エ『善の研究』


(答:エ)イウ 和辻 哲郎(わつじ てつろう、1889年3月1日 - 1960年12月26日)は、日本哲学者倫理学者、文化史家、日本思想史家。『古寺巡礼』『風土』などの著作で知られ、その倫理学の体系は和辻倫理学と呼ばれる。日本倫理学会会員。

2017早大・人間

問7 下線部f大正時代に関連して、当時の学問や科学技術をめぐる動向に関する記述として、誤っているものはどれか、1つ選べ。
 
 ア 津田左右吉は、『古事記』や「日本書紀」の文献学的批判を行なった。

 イ 本多光太郎は、KS磁石鋼を発明した。
 ウ 八木英次は、現在のテレビ用アンテナの原型を発明した。
 エ 理化学研究所が、第一次世界大戦の最中に設立された。
 オ 和辻哲郎は、『善の研究』を著して独自の哲学体系を打ち立てた。

(答:オ×和辻哲郎→西田幾多郎)〉

2017津田塾大(学芸(英文))

 大正から昭和の初期にかけて、(中略)哲学では、『善の研究』で知られる[ 10 ]が東洋と西洋の思想的統一を探究し、和辻哲郎は『風土』などで独自の倫理学を展開した。」

(答:西田幾多郎)〉


2016関西大・全学部2/8:「

F 倫理学者の10[ア和辻哲郎 イ西田幾多郎 ウ田辺元]は、西洋哲学を研究するとともに、仏教美術・日本思想史を研究し、『古寺巡礼』『風土』などを著した。歴史学者の11[ア喜田貞吉 イ津田左右吉 ウ安倍能成]は、『神代史の研究』『古事記及日本書紀の研究』『日本上代史研究』などを著し、古代史の科学的解明に貢献した。」

(答:10ア、11イ)

1940年3月 津田左右吉『神代史の研究』など筆禍事件。

退くよ摩擦だ 神代史。

1940年   津田左右吉 『神代史の研究』



2016明大・政経

 国家主義的気運が高まるとともに、(エ)国体論にもとづく思想統制がはかられ、学問の世界でも思想・言論活動に対する弾圧が厳しさを増した。政府は軍国主義を鼓吹し、国体観念の国民への浸透を促すとともに、来るべき総力戦の遂行に備えて、労働者と資本家が一丸となった戦争協力体制の構築に力を注いだ。 

問4 下線部エに関して、この時期の思想統制・言論弾圧に関する説明として誤っているものはどれか。A~Eから一つ選べ。


 A 文部省は『国体の本義』を発行し、国民に対して国体の尊厳と君臣の大義を説き、日本を天皇中心の家族国家とする運命共同体論を唱道した。

 B 津田左右吉の日本古代史に関する実証的研究が、皇室の尊厳を傷つけるものとして批判され、『神代史の研究』などの著書が発禁となった。
 C 政府の植民地政策を批判していた東大教授の矢内原忠雄が右翼から反戦思想として攻撃され、辞職を余儀なくされた。
 D 自由主義経済学者の河合栄治郎が軍部や政府の政策を批判した著書を発禁とされたうえで、東大教授を休職処分となり、起訴された。
 E 大内兵衛、有沢広已、西田幾多郎らの東大教授グループが、人民戦線の結成をはかって政府に反対したとして治安維持法で検挙された。」

(答:E× ※哲学者西田幾多郎は京都学派の創始者で京大教授、しかも政府に協力的)〉


2014立大・現代心理(映像身体)・社会・コミュ福祉(福祉)

 他の学問領域では、『善の研究』を著して脚光を浴びた〈 う 〉が、個人と社会の新たな関係を求めて東洋思想と西洋思想の統一をはかった。

 a.片山潜 b.西田幾多郎

 c.南方熊楠) d.和辻哲郎」

(答:b西田幾多郎)〉

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