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醍醐天皇(延喜の治)

2018-04-20 | Weblog

 今期醍醐は/実力隠し班田12に/整理令


(905古今和歌集・醍醐天皇)(日本三大実録・延喜格式)(最後の班田・914意見封事十二箇条)(902延喜荘園整理令


[ポイント]
1.醍醐天皇の代には、最後の班田を行い、延喜の荘園整理令を出し、『日本三代実録』、『延喜格式』や『古今和歌集』の編纂をおこない、意見封事十二箇条が提出された。

[解説]
1.藤原基経の死後、藤原氏を外戚としない宇多天皇は摂政・関白をおかず、学者菅原道真を重く用いたが、つづく醍醐天皇の時、藤原時平(899~909)は策謀を用いて道真を政界から追放した(昌泰の変(901))。

2.10世紀の前半は、醍醐村上天皇が親政をおこない、これはのちに「延喜・天暦の治」とたたえられた。

3.醍醐天皇(位897~930)の時代には、班田を励行し、延喜の荘園整理令(902)を出すなど、律令政治の復興に努力がはらわれ、また六国史の最後である『日本三代実録』のほか、『延喜格式』(907~27)や『古今和歌集』(905)の編纂などの文化事業もおこなわれた。しかし親政の合間にも、政治の実権は摂政・関白をつとめた藤原忠平(930~949)が握っており、この間の政策は藤原氏の政策ともいえる。

4.延喜の治の後半(914)に、三善清行から意見封事十二箇条が提出された。

5.その子の村上天皇(位946~967)も本朝(皇朝)十二銭の最後となった乾元大宝を発行するなど父の方針を受け継いだが、やがて都や地方の治安が乱れ、律令にもとづく政治はほとんどおこなわれなくなった。後世たたえられることになる「延喜・天暦の治」の内実はお粗末なものであった

〈2016関西大・全学部2月8日

(A)醍醐天皇は、藤原時平を左大臣、菅原道真を右大臣としたが、901年、藤原時平の策謀で、菅原道真は( 1 )に左遷された。道真は、学問・詩文に優れ、六国史の内容を分類・編年した史書『( 2 )』を編纂したことでも知られている。

 藤原時平は、政治を主導して律令制の立て直しのために班田の励行や、( 3 )の荘園整理令を出した。しかし、荘園の増加を抑制することはできなかった。この時代、地方の政治は混乱しはじめており、( 4 )は「意見封事十二箇条」を醍醐天皇に提出して対策を講じることを進言した。

(答:1大宰府、2類聚国史、3延喜、4三善清行 ※原問には選択肢30語あり)〉

〈2014明大・全学部前期

 下線部(十世紀初頭に朝廷は)(ウ)国司の行政の妨げとなる荘園を停廃する法令を発しに関する説明として誤っているものを、次のA~Dのうちから一つ選べ。

A この法令を発した天皇は桓武天皇である(×醍醐天皇)
B この法令の発布とともに、班田が実施された(〇)
C この法令が発布された時の年号は延喜である(〇)
D この法令発布の頃の戸籍には、実態を反映しないものが見られた(〇)」〉

〈2013早大・文化構想

 その後、1世紀が過ぎ、政治社会をめぐる意見を諸臣に求めた醍醐天皇の詔に応えて、三善清行は[ A ]」。

問3 空欄Aにあてはまる文はどれか。1つ選び、マーク解答欄紙の該当する記号をマークしなさい。もし、あてはまる文がなければ、記号オをマークしなさい。
  ア 17箇条の文書を提出した。
  イ 12箇条の文書を密封して提出した。
  ウ 11箇条の文書を掲示したあと提出した。
  エ 12箇条の文書を提出する予定であったが、妨げられた。」

(答:イ)〉

〈2009慶大・商

 10世紀になると、律令体制の崩壊がはっきりしてきた。(ア)違法な土地所有を禁ずる法令を出したり、班田の励行をはかるなどして、令制の再建を目指した。だが、もはや戸籍・計帳の制度はくずれてきており、牲田収受も実行不可能となっていた。914年、三善清行が[ 2930 ]天皇に提出した( c )にも、そのころの地方政治の混乱ぶりが指摘されている。」

(答:2930醍醐、c意見封事十二箇条)

問 下線部に関して、902年の(ア)違法な土地所有を禁ずる法令は何と呼ばれているか。

(延喜の荘園整理令)〉

 

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他氏排斥6事件

2018-04-20 | Weblog

 薬子女王って あこしょアン。


薬子(くすこ)の変・和(じょうわ)の変・応天門(おうてんもん)の変・衡(あこう)の紛議(ふんぎ)・原道真(すがわらのみちざね)左遷・安和(あんな)の変) 


[ポイント]
1.藤原北家の他氏排斥は、薬子の変承和の変応天門の変阿衡の紛議菅原道真左遷安和の変の順で発生した。

[解説]
1.北家は不比等四子の第2子房前にはじまる。房前の第2子が永手(式家の百川とともに道鏡排斥、光仁天皇担(かつ)ぎ出しに功)。永手の弟の孫が冬嗣。冬嗣が北家台頭の基礎をつくる。

2.薬子の変に際して810年、藤原冬嗣が巨勢野足(こせののたり)とともに蔵人頭に任命される。薬子の変は、平城(へいぜい)上皇の側近藤原仲成(ふじわらのなかなり)・薬子が、天皇への復位と平城京への還都を企てた事件。薬子の変で藤原北家が台頭し、式家が没落した。

3.藤原氏で四子以降、薬子の変まで活躍した藤原氏は仲麻呂南家)を除いて、主要人物(広嗣百川種継仲成)はすべて式家。良房以降はすべて北家。

4.承和の変(842)で藤原良房が皇太子を廃し、その側近伴健岑(とものこわみね)・橘逸勢(たちばなのはやなり)を配流。

5.応天門の変(866)は、まず左大臣源信(みなもとのまこと)が同門放火犯との伴善男の訴えに対し、良房の密告を用いた巧みな政治行動で伴善男を真犯人として伊豆へ配流排斥を遂げた事件。応天門の変の収拾を理由に、866年、良房が正式に摂政に就任した。

6.阿衡の紛議(887、阿衡事件)は、関白任命をめぐる、宇多天皇と藤原基経の暗闘事件。基経は政務をサボタージュして天皇を精神的に圧迫。結局、天皇側近の橘広相(たちばなのひろみ)の処罰で決着させた。

7.菅原道真(845~903)は文章(もんじょう)博士。讃岐守(さぬきのかみ)のとき中央で起こった阿衡の紛議に際し橘広相を積極的に弁護し、藤原氏の抑制をねらう宇多天皇に認められた。以後天皇の側近にあって894年遣唐使廃止を建言するなど重要な政策に関与。

8.昌泰(しょうたい)の変(901)は、つぎの醍醐天皇の時、右大臣菅原道真が左大臣の藤原時平の讒言で大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷された事件。

9.安和の変(969)は、陰謀ありとの密告で左大臣の源高明(みなもとのたかあきら)(皇族で源賜姓)が大宰府に左遷された事件。これで藤原北家による他氏排斥が完了、以後摂関常置となる。

[正誤問題]
1.菅原道真は、阿衡事件で醍醐天皇(×宇多天皇)に認められ、(次の醍醐天皇のとき)右大臣にまで昇進したが、左大臣藤原時平の讒言(ざんげん)で、大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷された。

〈2014立大・経済(経済・会計ファイ)・コミュ福祉(スポーツウェルネス)・観光(観光)

藤原北家に関する出来事について、もっとも古いいものから年代順に並んでいる組み合わせはどれか。次のa~dから1つ選び、その記号をマークせよ。
a.阿衡の紛議-承和の変-安和の変-応天門の変
b.安和の変-阿衡の紛議-応天門の変-承和の変
c.応天門の変-安和の変-承和の変-阿衡の紛議
d.承和の変-応天門の変-阿衡の紛議-安和の変」(答:d)〉

〈2012愛知教育大・前期

 今から約千百四十年ほど前の(a)貞観11年(869)5月、東北地方に大地震と津波が起こったことが、六国史最後の書である( A )に記録されており、先年話題となった。」
問1 空欄( A )に入る六国史の名称を答えよ。(答:日本三代実録「日続後続 文と三。」)
問2 下線aの前後の時期はどのような政治状況の時代であったか、下記の語句を用いて150字程度で説明せよ。使用した語句には下線を付すこと。
 清和天皇  藤原良房 応天門 北家

〔解答例〕
藤原冬嗣が薬子の変で台頭、子藤原良房が承和の変で伴、橘氏を排斥し、9歳の清和天皇に代わり外祖父良房は事実上の摂政に、応天門の変で伴、紀氏を追放、光孝天皇から正式の摂政に任命され権力を掌握。宇多天皇即位で関白となり阿衡の紛議・昌泰の変・安和の変を経て北家の他氏排斥が完了した。(157字)

 

 

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