1916(大正5)年9月 京都大学教授河上肇、『貧乏物語』
退く色肇 貧乏も。
1916年 河上肇 『貧乏物語』
[point]
1.河上肇は、『大阪朝日新聞』に『貧乏物語』を連載した。
[解説]
1.河上肇(1879~1946)は、山口県旧岩国藩士の家に生まれる。日本を代表するマルクス経済学者。東京帝国大学法科に進み、キリスト教の内村鑑三に影響を受け、また足尾鉱毒事件に衝撃を受ける。卒業後、新聞社記者、京都帝大講師、2年のヨーロッパ留学をへて、帰国後京都帝大教授。1916年(大正5年)から大阪朝日新聞に『貧乏物語』を連載し、翌1917年に出版され、ベストセラーとなった。結論は、貧乏をなくすには金持ちが贅沢をやめること、貧富の格差をなくすことだった。大正デモクラシーの中、貧困問題に正面から取り組んだ同書は、青年層に多大な影響を与えた。米騒動(1918年)以降、マルクス主義経済学の研究に傾斜し、やがて大学を辞し、実践活動に入る。ついに日本共産党に入党し、非合法の「地下活動」に入る。しかし検挙され、1933年から37年にかけて獄中生活を送る。収監中に転向声明を出す。出獄後は自叙伝などの執筆活動に入り、戦後世界での再活躍が期待されたが、敗戦後間もなく栄養失調などで死去したのが惜しまれる。
2.なお同名に国際問題評論家・河上清(1873~1949)がいる。山形県出身「万朝報」記者。のち渡米し、「時事新報」「毎日新聞」特派員・国際問題評論家として活躍。経済学者河上肇との混同に注意。
〈2017津田塾大(学芸(英文))
大正から昭和の初期にかけて、(中略)学術研究では、大正デモクラシーの風潮のもと、社会のありかたを問うさまぎまな主張が提出された。『東洋経済新報』の記者で、戦後に首相となる[ 7 ]は、自由主義にもとづいて、植民地の放棄や平和的な経済発展をふくむ小日本主義を唱えた。新聞に連載した『[ 8 ]』が反響をよんだ河上肇は、経済学者の福田徳三との論争をつうじて[ 9 ]主義経済学へと進んだ。[ 9 ]主義は、歴史学や文学などの学問をはじめ知的世界全般に影響をあたえた。哲学では、『善の研究』で知られる[ 10 ]が東洋と西洋の思想的統一を探究し、和辻哲郎は『風土』などで独自の倫理学を展開した。[ 11 ]は『古事記』や『日本書紀』の文献学的批判をつうじて古代史に新境地を開き、農商務省の官僚だった柳田国男は、民間伝承や風習を研究する[ 12 ]学の確立に貢献した。」
(答:7石橋湛山、8貧乏物語、9マルクス、10西田幾多郎
1911年1月 西田幾多郎『禅の研究』
行くいい禅の 西田来た。
1911年 『禅の研究』 西田幾多郎 京都大学
、11津田左右吉、12民俗)〉
〈2017大学入試センター・日本史A
問1 下線部a経済・社会の仕組みに対する人々の関心が高まるに関して述べた文として正しいものを、次の①~④のうちから一つ選べ。
① 雑誌『戦旗』には、プロレタリア文学の作品が発表された。
② 河上肇は、著書『太陽のない街』で貧困問題を取り上げた。
③ 経済学者大内兵衛は、戦争遂行に協力するため人民戦線を結成した。
④ 戦時中弾圧されたマルクス主義にもとづく研究は、戦後復活しなかった。」
(答:①、※②×河上肇→徳永直
1929(昭和4)年6月 徳永直『太陽のない街(共同印刷争議を素材として書いた作品)』
特に苦しい タイの街。
1929年 徳永直 『太陽のない街』
、③×協力→抵抗、④復活しなかった→復活した)〉
〈2017関西学院大・全学部
問10.下線部n津田左右吉に関して、正しいものを下記より選びなさい。
ア.津田左右吉は、代表的著作『郷土研究』において、日本の農村史を描いた。
イ.津田左右吉は.『古事記』や『日本書紀」の実証的・科学的分析を行なった。
ウ.津田左右吉は、庶民の歴史を重視した『貧乏物語』を書いた。
エ.津田左右吉は、儒教や仏教を外来思想として排除すべきとする『国意考』を著した。」
(答:イ〇、※ア×『郷土研究』は柳田国男、ウ×『貧乏物語』は河上肇、エ×『国意考』は賀茂真淵)〉
〈2017早大・教育
その後、出版条例は出版法に、新聞紙条例は新聞紙法に、それぞれ代わり、両法は第二次世界大戦後の初期まで存続した。dその間、出版法および新聞紙法にもとづいて、「安寧秩序」を乱し、「風俗」を害すると認定される文章が掲載された出版物は、発禁(発売頒布禁止)や削除などの処分に付されたのである。
問3 下線部dの出版法または新聞紙法によって、1930年代に発禁にされたものを2つ選べ。
ア 滝川幸辰『刑法読本』
イ 火野葦平『麦と兵隊』
ウ 和辻哲郎『風土』
エ 河上肇『貧乏物語』
オ 河合栄治郎『ファシズム批判』
カ 戸坂潤『日本イデオロギー論』」
(答:問3ア・オ)〉
〈2016立教大・現心コミュ福観光営
5.第二次世界大戦が終わると、米ソ両大国を軸とする2つの陣営の対立が朝鮮半島にも波及した。1948年にソ連の占領地域に朝鮮民主主義人民共和国が、アメリカの占領地城に大韓民国が建国され、朝鮮半島の南北の分断状況がこれ以降つくられた。1950年には武力による南北統一を目指した北朝鮮軍が韓国に侵攻し、朝鮮戦争が開始された。アメリカは日本の戦略的重要性を再認識し、日本を西側陣営に組み入れるために、講和条約の締結を急いだ。その結果、吉田茂内閣のもとで1951年9月にサンフランシスコ平和条約が調印され、1952年4月に発効した。講和条約調印をめぐっては、単独講和か、12全面講和かをめぐって国内世論は激しく対立した。
問12.この論陣を張った学者・知識人でないのは誰か。次のa~dから1つ選べ。
a.安倍能成 b.大内兵衛
c.河上肇 d.南原繁」
(答:c× ※生きていれば全面講和を唱えたであろうが、敗戦間もなく死去)〉
〈2016関西学院大・全学部
日露戦争以降、新聞・雑誌などが発達し、一般勤労者を基盤とする大衆文化が誕生した。そして、大正デモクラシーのもとではh多様な学問が花開いた。
問7.下線部h多様な学問に関連する説明として、正しいものを下記より選びなさい、
ア.河上肇の『貧乏物語』が広く読まれるなど、マルクス主義の影響が強まった。
イ.和辻哲郎は『善の研究』を著し。独自の哲学体系を打ち立てた。
ウ.柳田国男は民俗学を確立し『風土』を著した。
エ.長岡半太郎は強力な磁石鋼である、KS磁石鋼を発明した。」
(答:ア〇、※イ×『善の研究』は西田幾太郎、ウ×『風土』は和辻哲郎、エ×KS磁石鋼は本多光太郎)
1917年 本多光太郎KS磁石鋼を発明。
得意な本多 光太郎。
1917年 本多光太郎 KS磁石鋼
〈2014立教大・現代心理(映像)・社会・コミュ福祉(福祉)
問6.これに関連して、勤勉に働く労働者の賃金がなぜ上がらないのかを説き、『大阪朝日新聞』に『貧乏物語』を連載したのは誰か。その名をしるせ。」
(答:河上肇)〉
〈2013早大・政経
【史料】(1)「朝鮮の友に贈る書」
この世にはどれだけ多く、許し得ない矛盾が矛盾のままに行われているであろう。私は仮りに日本人が朝鮮人の位置に立ったならばといつも想う。愛国の念を標榜し、忠臣を以て任じるこの国民は、貴方がたよりも、もっと高く反逆の旗を翻すにちがいない。われわれの道徳はかねがね、かかる行為を称揚すべき立場にいる。われわれは貴方がたが自国を想う義憤の行いを咎める事に、矛盾を覚えないわけにはゆかぬ。
問1.【史料】(1)の著者の説明として正しいのはどれか。
イ『白樺』に参加し、また生活のためにつくられた工芸品の美を評価し、日本民芸館を創設した。
ロ 『遠野物語』ほかの作品を著し、日本民俗学の創始者として知られた。
ハ 京都大学教授として、『貧乏物語』などを刊行したが、のちに共産党員として逮捕された。
ニ 東京美術学校や日本美術院の創設にかかわり、『東洋の理想』ほかの著作でも知られた。
ホ 『友情』などの著者として知られ、また「新しき村」を建設するなど人道主義者として知られた。
(答:イ〇(1)の著者とは柳宗悦 ※ロ×柳田国男、ハ×河上肇、ニ×岡倉天心、ホ×武者小路実篤)〉
〈2013関西学院大学・済総合国際
大正期から昭和初期にかけては、(中略)学問においても、cさまざまな分野で優れた学者が活躍し、日本独自の業績があらわれるようになった。
問3.下線部cに関して、それぞれの学者の名前と分野の組み合わせとして、誤っているものを下記より選びなさい.
ア.野口英世一医学
イ.河上肇一経済学
ウ.津田左右吉一歴史学
エ.本多光太郎一数学」
(答:エ×物理学。強力磁石鋼としてのKS鋼および新KS鋼の発明者)〉