764(天平宝字)年 恵美押勝の乱
なぜ無視するの 恵美のこと。
764年 淳仁天皇 恵美押勝の乱 道鏡
[ポイント]
1.藤原仲麻呂は、南家出身、紫微内相、淳仁天皇を擁立し恵美押勝の名を賜る、橘奈良麻呂の乱を押さえ、養老律令を施行、新羅攻撃を計画。
[解説]
1.藤原仲麻呂は孝謙天皇の時代に、光明皇太后と結んで政界で勢力をのばした。
2.これまで政権を握っていた橘諸兄の子の奈良麻呂は仲麻呂をたおそうとするが、逆に滅ぼされた(橘奈良麻呂の変)
3.仲麻呂は淳仁天皇を擁立して即位させると恵美押勝の名をたまわり、破格の経済的特権を得るとともに独裁政権を確立した。
4.仲麻呂は紫微中台(光明皇后の皇后宮職を改称したもの)長官(紫微内相)となって権力をふるった。長官はもと紫微令といったが、紫微中台を太政官と同格にするため、内相とあらためたもので、太政大臣に相当する。
5.養老律令(成立は718年)が施行されたのは、藤原仲麻呂が政権を担当していた757年である。
6.唐で安史の乱(安禄山・史思明の乱、755~763)がおこり混乱が広がると、押勝は新羅攻撃を計画したが、実現しなかった。
7.恵美押勝は後ろ盾であった光明皇太后が死去すると孤立を深め、孝謙太上天皇が自分の看病にあたった僧道鏡を寵愛して淳仁天皇と対立すると、危機感をつのらせて764(天平宝字8)年挙兵したが、太上天皇側に先制され滅ぼされた(恵美押勝の乱)。
8.のち淳仁天皇は廃されて淡路に流され(淡路廃帝)、孝謙太上天皇が重祚して称徳天皇となった。
〈2014同志社大・文
755~763年に唐で乱がおこり混乱が広がると、新羅攻撃を計画した人物がいた、光明皇大后の信を得て、新設された紫徴中台の長官に任じられた、その人物を次のうちから1つ選べ。
1藤原清河 2藤原広嗣
3藤原仲麻呂 4藤原百川」
(答:3.藤原仲麻呂)〉
〈2013早大・国際教養
安史の乱による唐での混乱に乗じて、新羅遠征討画をくわだてたのは誰か。1つ選んで、マーク解答用紙の該当記号をマークせよ。
ア長屋王 イ橘諸兄 ウ藤原不比等
エ藤原仲麻呂 オ吉備真備)
(答:エ藤原仲麻呂)〉
〈2013立命館・文法済営などA方式
下線部(3)718年に養老律令がつくられたに関連して、養老律令は、大宝・養老両律令の編纂に関わった人物の孫が政権を掌握した時期に施行された。政権を掌握した孫とは誰か。氏名を漢字5文字で答えよ。」
(答:藤原仲麻呂)〉
〈2012明大・商
「その後、b【1元明 2光仁 3元正 4聖武 5孝徳】天皇在位の718年、養老律令が編纂されたが、大宝律令と比べて大きな変更はなかった。この養老律令(成立は718年)が施行されたのは、藤原仲麻呂が政権を担当していた757年である。」
(答:3〉
〈2012立大・全学部
他方、この時期には、光明皇太后の信を得た藤原仲麻呂が紫微中台の長官として権力を握っていた。これに対抗する〈 え 〉は、藤原仲麻呂を倒そうと図ったが、757年、計画が発覚し失脚してしまった。光明皇太后が病に伏せると、その看病のため、孝謙天皇は淳仁天皇に譲位した。淳仁天皇のもとで、藤原仲麻呂は、( ト )の名を得て、太政大臣としてさらに権力をふるった。ところが、光明皇太后の死後、このような状況に変化が生じる。孝謙太上天皇は、僧道鏡を重用して、淳仁天皇と対立するようになったのである。これに危機感を感じた( ト )は、764年挙兵するも、制圧された。この後、淳仁天皇も天皇の地位を追われて淡路に配流され、孝謙太上天皇が重祚し、称徳天皇となった。」
(答:え橘奈良麻呂・ト恵美押勝)〉
〈2012立大・全学部2/6実施:「
これ(養老令)に関する記述として正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選び、その記号をマークせよ。
a.これの多くの部分は、注釈書『令義解』や『令集解』に引用されている
b.藤原仲麻呂によって、757年に施行された
c.藤原不比等らによって、701年に編纂された
d.令とは、行政組織・官吏の勤務規定や人民の租税・労役などの規定である」
(答:c ※不比等らで718年成立)