仲間神聖 清かった。
(遣唐使で客死・阿倍仲麻呂)(井真成(せいしんせい)・高向玄理・藤原清河(ふじわらのきよかわ))
[point]
1.唐で客死した著名人は阿倍仲麻呂・高向玄理・藤原清河・井真成の4人である。
[解説]
1.高向玄理は、第1回遣隋使小野妹子一行の1人。南淵請安らともに帰国し国博士となり活躍後、再入唐したが客死。
2.阿倍仲麻呂は唐の大学に学び科挙に合格、玄宗皇帝に仕え、詩人王維、李白と交友したが、客死。
3.仲麻呂は「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」という望郷の歌を詠んでいる。
4.藤原清河は北家の祖房前の子で、鑑真を伴い帰国をはかり、鑑真は無事日本に到着したが、清河と阿倍仲麻呂の乗る船は難破し、唐で客死した。
5.井真成は仲麻呂と同便で渡航、玄宗皇帝に仕え客死した人物の中国名。その墓誌は国号表記「日本」の最古の例。
〈2014同志社大・文
〔Ⅰ〕次の(1)(2)の文章を読み下線部または空欄に対応する下記の設問に笞えよ。
(1)618年に、隋にかわって中国を統一した唐は、アジアに大帝国をきずき、周辺諸地域に大きな影響をあたえた。西アジアとの交流もさかんとなり、都の長安は世界的な都市として国際文化が花ひらいた。東アジアの諸国も唐と通交するようになり、日本からはa)遣唐使が派遣された。大使をはじめとする遣唐使には、留学生・学問僧らも加わり、ア)多いときは約500人もの人々が渡海した。航路は難波津から筑紫の大津浦(博多湾)を経た後、壱岐・対馬から朝鮮半島の西沿岸を北上し、山東半島に至る「北路」と、五島列島付近から一気に東シナ海を横断して揚子江岸に向かう「南路」および、九州南端から種子島・屋久島・奄美大島などを経由した後、東シナ海を横断して揚子江口を目ざす「南島路」の、イ)ルートがとられた、b)しかし、造船や航海の技術はまだ末熟であったたため、海上での遭難も多かった。遣唐使たちは、唐から先進的な文化をもたらし、日本に大きな影響をあたえた。とくに帰国した( c )や吉備真備は、のち聖武天皇に重用され政界でも活躍した。
【設問ア】使節が渡航に用いた、奈良時代の基本的な船の数を、次のうちから1つ選べ。
1.2隻 2.4隻
3.6隻 4.8隻
【設問イ】これらのルートのうち、派遺の初期に主にとられたルートを、次のうちから1つ選べ。
1.北路 2.南路 3.南島路
【設問b】717年に留学生として入唐したある人物は、王維や李白らと交流し、鑑真の渡日に尽力し自らも帰国を試みるが失敗に終わっている、この、玄宗皇帝に重用され高官にのぼり、唐で没した人物名を漢字で記せ。
【設問c】空欄( c )は、法相宗の僧で、橘諸兄の政権に参画し、僧正に任ぜられ、護国仏教の確立に努めた。この人物名を漢字で記せ。」
(答:ア2、イ1、b阿倍仲麻呂、c玄昉)〉
〈2011文教大・全学部
問6 下線部(d)吉備真備・玄昉の人物について述べたA~Cの文について、その正誤の組合せとして正しいものはどれか。次の中から一つ選べ。
A 吉備真備は大和の有力豪族出身で、蔭位の制によって位階を得て中央政界に進出した。
B 玄昉は称徳天皇の薨去(こうきよ)とともに失脚し、下野薬師寺別当に左遷された。
C 吉備真備と玄は、ともに聖武朝下の橘諸兄政権に参画した。
1正正誤 2正誤正
3誤正誤 4誤誤正」
(答:4 ※A蔭位の制により出世したのではない。B玄昉は道鏡の誤り)〉