蓑ふわっとさ いすゞとか エッチ荒地帆 三軒じゃ。
美濃 不破 東山道 伊勢 鈴鹿 東海道 越前 愛発(あらち)北陸道 三関
[ポイント]
1.「三関(さんげん)」とは鈴鹿(東海道・伊勢)、不破(東山道・美濃)、愛発(北陸道・越前)の三つの関をさす。
[解説]
1.反乱を企てるものが東北や北陸におもむいて兵を集めるのを防ぐために、三関の守りを固めることになっていた。「左京の人従七位下漆部造君足・無位中臣宮処連東人ら、密を告げて、「左大臣正二位長屋王、私かに左道を学びて国家を傾けんと欲す」とまうす。その夜、使を遣して固く三関を守らしむ」(原漢文『続日本紀』)
2.天皇崩御や国家的反乱の際に固められることを固関(こげん)という。
〈2016立命館大・全学部
b)下線部2固関に関連して、古代の三関の一つである不破関は、七道のうちいずれに設置されたものであったか。もっとも適当なものを下から一つ選べ。
あ 東海道 い 東山道
う 北陸道 え 山陰道」
(答:い)〉
〈2014立大・現代心理(映像身体)・社会・コミュ福祉(福祉)
4.このうち東海道におかれたのはどれか。次のa~dから1つ選び、その記号をマークせよ。
a.愛発関 b.鈴鹿関
e.箱根関 d.不破関
(答:b)」〉
〈2008東大・前期:「
第一問.次の(1)~(6)の文章を読んで、下記の設問A・Bに答えなさい。
1.奈良時代の東国の郡司には、金刺舎人(かなさしのとねり)など6世紀の大王宮があった地名を含む姓が見える。これはかつて国造たちが、その子弟を舎人として、大王官に仕えさせていたことによると考えられる。
2.672年、近江朝廷と対立し、吉野で挙兵した大海人皇子は、伊賀・伊勢を経て、美濃こ移って東国の兵を集結し、不破の地を押さえて、近江朝廷に勝利した。
3.大宰府に配属された防人は、全て東国の諸国から徴発されており、前の時代の国造に率いられた兵力のあり方が残っていたと考えられる。
4.律令制では、美濃国不破・伊勢国鈴鹿(すずか)・越前国愛発(あらち)にそれぞれ関が置かれ三関(さんげん)とよばれた。奈良時代には、長屋王の変や天皇の死去など国家の大事が発生すると、使者を三関のある国に派遣し、関を閉鎖する固関(こげん)が行われた。
5.聖武天皇の詔には、「額(ひたい)に矢が立つことはあっても、背中に失が立つことはあるものか」と身辺警護の「東人」が常に誇っていたことが見える。古代の天皇の親衛隊は、東国出身者が中心であったらしい。
6.764年、反乱を起こした藤原仲麻呂は、平城京から山背・近江を経て、越前に向かおうとしたが、愛発関で阻まれ 近江国高島(たかしま)郡において斬殺された。
A 東国は古代国家にとって、どのような役割を果たしていたのか。3行以内で述べなさい。
B 律令国家は、内乱にどのように対処しようとしたのか。古代の内乱の傾向を踏まえて、3行以内で述べなさい。」
(解答例:
A 東国は古代国家の軍事力の供給源であった。すわち東国の豪族の子弟は、平時には王宮警備・北九州をはじめ辺境防備の主力であり、戦時には反乱に対する勝利を決定づける軍事力の要であった。
B 古代の内乱では、東国の武力の帰趨が勝敗を決する傾向が強かった。このため反乱勢力は軍事力の加勢を受けんとして東国に向かうことが多かった。これを未然に防ぐために三関が設置され、有事の際に閉鎖された。)〉