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(醍醐天皇・914年)(三善清行意見封事十二箇条)
[句意]醍醐天皇が食ったのは三善清行の十二箇条の意見書だ、という句。3×4=12に着目して作った言葉遊びの句です。「食らう」はパンチを食らうと同用法です。
[ポイント]
1.三善清行が914年に醍醐天皇に「意見封事十二箇条」を提出し、地方政治の衰退を訴えた。
[解説]
1.後世、「延喜の治」と讃えられた醍醐朝も、国政の建て直しなど積極策のほとんどが、(右大臣菅原道真というより)左大臣藤原時平の指揮のもとで実施されていたと思われる。
2.しかし、時平の死後は、宇多上皇・醍醐天皇ともに政治に関心を失い、律令体制の崩壊と変質が顕著となり、三善清行の「意見封事十二箇条」が出ることになった。
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B.10世紀初頭に書かれた「意見封事十二箇条」において、備中国の介として現地に赴任した[ ウ ]は、下道(しもつみち)郡邇磨郷の様子を次のように記し、公民の減少が著しいことを嘆いている。
ここにかの国のc風土記を見るに、皇極天皇の六年(西暦660年)に、大唐の将軍蘇定方(そていほう)、
[ エ ]の軍を率ゐ[ オ ]伐(う)つ。[ オ ]、使を遣して救はむんことを乞ふ。(中略)天皇詔(みことのり)を下し、試みにこの郷の軍士を徴(め)したまふ。即ち勝兵(しようへい)二万人を得たり。天皇、大に悦びて、この邑(むら)を名(なづ)けて二万(にま)郷と日(のたま)ふ。後に改めて邇磨郷と曰ふ。
これは、660年に[ オ ]が滅亡した際、朝廷から援軍を送ったときの記録であるが、それによると、一つの「郷」だけでたちどころに二万人の兵士が集まったというのである。
しかし同じ史料によると、これ以降次第に公民の数は減少し、8世紀後半のd天平神護年間には1900余人、9世紀後半の[ カ ]年間には70人余りが大帳という帳簿に登録されているだけだったという。このように、地方の公民は有名無実のものとなり、律令別の国家支配は次第に危機に直面していった。
問5.空欄[ ウ ]に入る人名として正しいものを、次の1~4.の中から一つ選べ。
1.菅野真道 2.三善清行
3.在原業平 4.菅原道真
(答:2)
問6.空欄[ エ ][ オ ]に入る国名として正しいものを、次の1~4の中から一つ選べ。
1.渤海 2.新羅 3.高句麗
4.任那 5.倭 6.百済
(答:エ2、オ6)
問7.空欄[ カ ]に入る語句として正しいものを、次の1~4の中から一つ選べ。
1.養老 2.弘仁
3.貞観 4.延喜
(答:3)
問8.下線部c風土記について、『風土記』について述べた文として誤っているものを、次の1~4のうちから一つ選べ。
1.『古事記』が完成した翌年に、朝廷によって撰進が命じられた。
2. 編纂の実務は、舎人親王や藤原不比等によって進められた。
3. 地名の由来や地方の特産物などが記録された。
4. 現存する風土記の一つとして「出雲国風土記」がある。
(答:2)
問9.下線部d天平神護年間について、この時期の前後の出来事Ⅰ~Ⅲについて、古いものから年代順に並べた組合せとして正しいものを、下のの1~6の中から一つ選べ。
Ⅰ.僧道鏡が太政大臣禅師に任じられた。
Ⅱ.皇位継承をめぐり、和気清麻呂が宇佐八幡宮に遣わされた。
Ⅲ.淳仁天皇が廃位された。
1.Ⅰ-Ⅱ-Ⅲ
2.Ⅰ-Ⅲ-Ⅱ
3.Ⅱ-Ⅰ-Ⅲ
4.Ⅱ-Ⅲ-Ⅰ
5.Ⅲ-Ⅰ-Ⅱ
6.Ⅲ-Ⅲ-I
(答:5)
765年10月 道鏡、太政大臣禅師に。
なろうことなら大臣だ。
765年 道鏡、太政大臣禅師