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高峰秀子の流儀 … 癌研 有明病院で読み始めた本

2010-10-10 | 日々の雑感
高峰秀子の流儀
斎藤 明美
新潮社


金曜日は 朝から有明病院行きの日。

前日の千代田区の病院にはトークマスターとDSを持っていった。

しかし 有名だけどこじんまり病院の待合室では 気持ちを集中して録画したNHKのラジオ英会話もそうそう続けて聴けなかったし、DSでゲームするのも回りに憚れて 待ち時間の2時間半の半分以上が手持無沙汰になってしまった。

そこで 金曜日の朝は ハードカバーでちょっと重たかったけど、高峰秀子の流儀という本を持っていくことにした。

6月ぐらいに妹が買った本で 二か月ほど前に私に渡されたけど 開いてもいなかった。

妹は 「死んだママが 高峰秀子が好きだったでしょ。 だから 目についた時 迷わず買ってしまったの」と言い、少々内容を教えてくれていた。

しかし私には 母が高峰秀子が好きだったという記憶がない。

私と妹では 母の思い出で重なり合っている部分が少ない (わずか2歳しか離れていないのに)

私と妹を平等に愛しみ育ててもらったとは思っているけど、それぞれの立場や個性にあった対応をしていたのだろう。

母が亡くなり26年が過ぎた。 この26年の間 私は母を思い出した時や 思い出したい時は さだまさしの歌を聞いたり ミッシェル・ポルナレフというフレンチポップミュージシャンの歌を聴いてきた。

母は さだまさしの歌詞がいいと言っていた。 

ミッシェル・ポルナレフは 私がティーンエイジャーの頃好きだったミュージシャンで、母はなかなかその名前を覚えられなかった。

私が何回も名前を繰り返して 母に覚えてもらおうとしていた時 遂に「ミッシェル ポルノでない って覚えようか」と言って 娘が好きな音楽を一生懸命知ろうとしてくれた。

そんな母を私も妹も大好きだったのに、自慢の母だったのに 体調を崩し病名がわかり わずか半年の闘病生活で 亡くなった。

私も妹も結婚し 子供も生まれていたが、母亡きあと 随分辛い思いをした。 悔しい思いもした。

大人になっていたのに、まだまだ母の深い庇護のもとにあったんだと 妹としみじみ言いあってきた。

わが子にだけは 同じ思いをさせたくないと 40歳になる前から毎年人間ドッグで健康診断をしてきた。

なのに 有明を紹介されることになるなんて。

母に傍にいてほしいと思った。 母が好きだったという高峰秀子について書かれている本を持っていくのは ぴったりのような気がした。


癌研 有明は いい病院だった。 PHSの患者呼び出し器をあてがわれ、院内の好きなところで 自分の呼ばれる番を待っていればいいと最初に説明された。

私は本を読める場所を探し出し ゆっくりと本を読んで自分の番がくるのを待つことができた。


そして この本は 素晴らしくいい本だった。 読んでいて 心が静かに落ち着いてくるのが自分でもよくわかった。

著者の斎藤明美さんの文体もいいのだろうが、何と言っても高峰秀子という一個人の生き方 考え方が すごくいい。 読んでいて気持ちいい。 潔いのだ。

母と 女優高峰秀子ではなく 一人間としての高峰秀子について語り合いたかったと思った。

母は私を助けてくれたと思う。 金曜日のうちに 検査した部分は白と診断が下った。

手術して摘出部分の病理検査を勧められた。

ちょっとほっとしたけど まだグレーゾーンにいる。

土曜日ホームドクターに報告に行くと、半分おめでとうだねって 言ってもらえた。

手術に向けて 体力をつけておきなさいとも言われた。


手術の後 検査結果がどうでようと、私はまだまだ自分の人生をお終いには出来ない。

プーサンに申し訳なさすぎる。

プーサンやトトの為に そして独立はしたけど 長男家族の為にも 闘わなければと気持ちを奮い立たせている。


そしてもう一つ 高峰秀子の随筆を片っ端から読もうと思っている。



コメント
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