数代にわたって重なり、積もり積もった女性たちの嘆き、悲しみ、憤怒の声が、眼の前にいる、この能力ある一女性を後押ししたのではないかと、私はインタビュー時、ひしひしと感じることがあった。
石原一子さん 1924年生まれ
東京女子大卒業後、一橋大に初の女子学生として入学。卒業後、高島屋入社。1979年、女性初の役員(一部上場企業における初めての女性役員。常務取締役、経済同友会にも初の女性会員
・英語の先生は私たちに、「これからはやっぱり女性も勉強して世の中を知らないといけない」と、いつもおっしゃっていたしね。
・夏休みに突然、チフスが大流行して女学校の寄宿生と寮監が22名なくなった。
「当時は原因不明とされましたが、戦後になってハルビン郊外にあった日本軍の細菌研究施設、731部隊が私たちが生活用水として使っていた溜池にチフス菌を撒いたからだと聞いた。もし、それが事実なら私は絶対に許せない。その上、彼らは自分たちの人定実験の結果を書いた資料を米軍に渡すことと引き換えに罪を逃れたと聞いて」
・当時は小学校を卒業したら男子は中学、女子は女学校にしか進学できない。それは単に性別で通う先を分けているだけだと思っていたけれど、教育の質まで別だったなんて。
「そうか、国は女にはこの程度の教育でいいと考えているんだ。男子と教育に差をつけているんだ」って初めて知って悔しく思た。それで私の中に闘争心が芽生えたのよ(笑)。
・女性でもしっかりとした知識を身に付けるべきだという東京女子大学の教育理念には深く共感し、勉強に励んだ。
・新京から、身なりのいい日本人の紳士が乗ってこられ、私の隣に座られた。後に総合商社兼松の社長になる谷口三樹三郎さんでした。後々、私は、この谷口さんから、大きな影響を受けることになる。
・「知識は決して、その人から離れない」
・人生の目的を結婚んいおいて、家庭に入って一生を終えよう、なんて考えは私にはなかった。
・東京女子大の寮監の先生からのお手紙でした。
「新制の大学教育がスタートした。女性でも、男子と同等の大学教育が受けられるようになったのだから、身体一つでも、東京に出てきたほうがよい」
両親を説得して、ついに一家で東京に出た。石原は受験して東京商科大学(一橋大学)への入学を果たす。一橋大学にとって初の女子学生となった。卒業するまで女性は石原ひとり。
・当時の銀行は大卒女性を男性と同じ条件で採る気なんてまったくない。
・高島屋の役員面接で、石原ははっきりと、「女性を活用しないと会社として損なのではありませんか」と発言した。
・課長から露骨に嫌われて、それで婦人服売り場から台所用品売り場に飛ばされたの。デパート業界では、繊維から台所っていうのは左遷。でも、私はまったくめげなかった。「ここでも売って自分の正しさを証明してみせる」って奮起した。とにかく上司が私の言う物を仕入れさえすれば、有難いことに私の予想通りに売れてくれる。数字が私の感性の正しさを証明してくれたの。
・初めて営業部長を口説いてアメリカからバイロセラムの鍋を船一艘分、買い付けるという決断をした。次の船便は半年先か一年先だから、その間、高島屋だけで独占して売ることができる。船の積み荷を全部買うって勇気がいるけれど、これが見事に当たって、会社はだいぶ儲けたの。
・私は仕事をし続けたいと思ったけれど、だからといって結婚や、出産を諦める気なんて、まったくなかった。子どもか仕事か、という考え方自体がおかしいと思っていたもの。どうして片方を諦めなくっちゃいけないの。子どもも欲しい、家庭も欲しい、仕事も欲しい、それでいいじゃないの。
・「前例がないなら、自分で造ればいい」
育児休暇という制度は、まだ社会になかった。こうした中で、石原はひとりで会社にかけ合い、三か月だけ職場を休んで出産すると、すぐに現場に復帰した。
38歳になった時、二度目の妊娠をした。二人目を出産しても働くという医師原に、周囲は冷ややかだった。
・女性社員の妊娠をマイナスとしか受け取らない会社に対して、石原には、「女性社員の経験こそが会社の宝なのだ」と、自分が先頭に立って証明してみせたいという気持ちがあった。それと同時に、母親となった女性たちの切実な悩みや要求に応えたいという重いもあった。
物を売るだけではダメだ。女性に生活スタイルや、「ライフ」そのものを提言し、提供したい。石原はそう考えるようになっていた。
「ちょうどその頃、ナイロン製品が出回るようになり、大変なブームだった。ベビー用品にもナイロン製品を使うべきだと、東レの営業マンが強気で売り込んできた。けれど私は、赤ちゃんには絶対に綿100%の、ナチュラルな商品のほうがいいと思っていた。だから耳を貸さなかった。最後は営業マンを論破して追い返した。
・子どもはよく食器を落とす。落として割れない、ということでプラスチック製品が重宝らられていたのだ。だが、当時は熱湯を注ぐと有害物質が溶け出す可能性も指摘され、厚生省がプラスチック製品の衛生基準を強化した時期でもあった。
「特に赤ちゃんには安全な食器を届けたい。大人が使うのと同じ冬季で食べさせてあげたいと思い、日本陶器(ノリタケ)を訪れて子ども用に強度をアップした商品の開発を依頼し、高島屋のオリジナルベビー食器として売り出しました。これが大変なヒット商品になった。今でも売られています。
・アメリカでキャリアウーマンの指南書としてベストセラーになった話題作の翻訳を石原は手がけた。「男子のように考え、レディのようにふるまい、犬のごとく働け」デレク・A・ニュートン著
・石原が手がけたことがひとつある。それは女性社員の「再雇用制度」。
・「やっぱり、人間は自分の思う道に進んで、やりたいことをやりきらなくては後悔が残ると思う。諦めることは簡単ですよ」。
・働くことは生きること。
杉内壽子さん 1927年生まれ
囲碁棋士。女性として初めての八段。女流選手権を四期、女流名人を四期
日本棋院の女流棋士会長、棋士会会長を長く務めた。
・古めかし印象を持たれがちな囲碁界であるが、こと女性の進出という点でいえば、むしろ非常に拓かれていたと言っていいだろう。江戸時代の末期にはすでに女性の棋士がおり、活躍していた。
・父は「囲碁教授」の看板を掲げた。
「父が私に囲碁を教えたのは、女性の可能性を追求してみたい、と考えたからだそうなんです。プロの世界では四段以下を低段者、五段以上を高段者としており、四段以下は少し低く見られる。当時も女性のプロはいましたが、全員が低段者で高段者はひとりもいなかった」。
思い立つと栄三(父)は、さっそく自分で編み出した英才教育を壽子に施した。それは生活全般にわたす、非常に厳しいものであった。
「朝起きますと、まず冷たいタオルが置いてありまして、それで冷水摩擦をします。それから庭に出てラジオ体操。それから、ひとり碁盤に向かって歴史上の名人が打った語を並べて、囲碁の勉強を致しました。それが済ましてから、ようやく朝ご飯です」。
・修行と稽古(指導碁)に日々を捧げ、1944年には大手合の二部(四段以下)で全勝し、早くも初段から二段に昇段する。
・三人の子どもを授かったことは、壽子の生活を根本から変えた。
「私よりも先輩の女性棋士の方で結婚し、お子さんも持っておられるというかたは、ひとりもいなかった」。
お世話になった財界人の大倉喜七郎先生からのお手紙でした。
「あなたはいつまで休んでいるのですか。あなたの女性のパイオニアとしての使命はどうなりましたか」と私を叱咤する大変厳しいお言葉が並んでいました。
私はそれを読んで、ハッとしました。
「ああ、そうだ、本当にそのとおりだ。私にはまだやらなければいけないことがある。いつまでも休んでいてはいけない」、そう心から思いました。そこえ復帰することにしたんです。
・夫に、こう言われました。
「あなたは十年休んだんですよ。だから十年かけて取り戻せばいいんです。だいた勝ち負けで落ち込むのはおかしいですよ。一局一局、勉強させてもらう、そういうつもりで打ったらどうですか」
このひと言を聞いて、私は本当にそのとおりだと思いました。
「次は、この人に教えてもらえるんだ」と対局が待ち遠しくなった。そんなことで三年くらい経ちましたら、だいぶ勘が戻ってきました。
・1973年には七段になれました。1982年には、八段に昇段した。大手合に全勝するという快挙をも成し遂げる。
赤松良子さん 1929年生まれ
津田塾専門学校(津田塾大学)、東京大学法学部。労働省。1982年労働婦人少年局長。
男女雇用均等法成立の立役者となる。細川内閣、羽田内閣で文部大臣。
・食べるものがない。屋敷も焼けた。財産も失った。戦前の生活から一転して、赤松家は苦境を強いられていたらが、赤松には夢があった。入学したい学校があったのだ。東京の津田塾である。
ひとまず神戸女学院専門学校英語学科に入ったものの、七か月経ったところで赤松は健康を害して休学し、そのまま退学した。学ぶならば、津田塾に行きたいという重いがあった。そして、それを後押ししてくれたのは、やはり母だった。
・「母の理想としては、私に津田で英語を勉強させて、大阪に戻ってきて近所の女学校の英語の先生になってもらいたい。そう考えていたんだと思う」。
・せっかく男性と同等の教育が受けられる時代になったのに、姉はその恩恵に恵まれなかったのだ。ならば、その分まで自分が享受しよと赤松は思った。時代の幸運に巡り合ったのだから、努力して、その果実を掴むべきだと考えたのだ。赤松はそこで、東京大学の法学部を受けると決意する。女性は赤松を含めて四人だけだった。
・「別に法学や政治学を学びたいと思って法学部に進んだわけでじゃない。私は職業婦人になちたかったわけで、実益として法学部を恨んだのよ」。
・「なぜ労働省かって、聞かれると驚くわ。だって、当時は労働省しか女性を入れてくれなかったんだもの」。
GHQによって労働省は千五に新しく設置された省だった。省内には「婦人少年局」という部署があったが、これはGHQが本国の「労働省婦人局」を意識して設けたもので。日本の婦人問題とかきけつしていくための拠点と位置付けられていた。「局長は女性であること」とGHQが厳命し、すべての省庁のなかで、唯一、初代から女性が局長を務めていた。GHQの抜擢により初代局長を務めたのが、社会運動家の山川菊栄、二代目の局長は津田塾の学長となる、藤田たき、三代目以降も、ずっと諸税で占めれており、後に赤松も名七代目の局長となる。
・本省内ではなく埼玉労働基準局調査課に調査員として贈られたのだ。・・・。これは、入省五年目の男性のキャリア官僚には絶対に、やらせない仕事です。・・・。憤懣やるかたなかったけれど、省内で、「差別だ」と言って争えるかといったら、微妙なところ。たから、騒がずに我慢した。
赤松自身が労働省で、職場における性差別をを実際に体験したのだ。疑問が彼女の中に蓄積されていった。
・約三年間、山梨で過ごす(山梨労働基準局長)ことになったが、その間には、物を読み、書き、勉強する時間を持ったという。
・「男女雇用機会均等法」制定への闘い
とにかく作ることを優先しようと思った。とにかく作って、あとは快晴を重ねて理想に近づけていけばいい。当時、そう思っていた。実際、その後、二回も三回も改正されて、青の頃は生ぬるいと言われたけれど、努力義務規定しかなかったことも、その後は強硬規定にできたし、理想にどんどん近づいてきている。だから私がしたことは正しかったと今でも思っています。
当時、国会の外でも議論が巻き起こった。「男は仕事、女は家庭」という役割分担こそ日本文化そのもであり、主婦の存在を評価しない男女雇用機会均等法は開く方である、といった趣旨の、ひどく幼い論調(長谷川三千子)埼玉大学助教授)であった
田部井淳子さん 1939年生まれ
昭和女子大学英米文学科。女子登攀くらぶを1969年に設立。1975年日本女子登山隊副隊長として女性として世界で初めてエベレスト登頂に成功する。1992年、女性で世界初の七大大陸最高峰登頂者に。
・「私は登山家ではありませんから」
登山家と名乗るのは、登山によって収入を得る人たちであって、自分はそうではない。スポンサーを求めず、自己資金で自分の登山をしてきた。
・「初めて登山を経験したのは、少額4年生の時のことです。担任の渡辺先生が山好きで、昼休みに学校の授業とは関係なく、『自分は夏休みに山に登るが、一緒に行きたい者は連れていくぞ』とクラス全体に声をかけてくれたんです」。
「学校の教科書とか黒板では習えないことがたくさんあるんだ」って。自分の目で見て、自分の肌で感じ取った、驚きと気付きの感覚。それが私の原典になっていると思います。
・本格的な登山に臨むには、ひとりでは無理だ。山岳会に所属し、仲間たちと隊を作って登らなくてはならない。また、切磋琢磨できる仲間も欲しかった。
・しだいにアタッカーになれる人は、体力、技量面から自然と絞られていった。第二キャンプまでは全員が登れたが、そこから先はアタッカー広報だけが進むことになった。
「隊長がアタッカーを選ぶのですが、私と渡辺退院の二人が候補者として指名された」。
・この騒ぎ(エベレスト登頂に女性初)の中で、とても嫌だったことがあります、それは、私の名前だけが取り沙汰されたことです。確かに頂上まで行ったのは私ひとりだったけれど、「女子登攀クラブ」が登頂に成功したんです。それなのに、私の名前だけが紹介される。フェアじゃないと思いました。他の隊員だって、そう思ったはずです。
・家庭も仕事も山も諦めない
「子どもがいるのに、山に登って」「子どものことを考えていない母親だ」といった批判を面と向かってされることもあった。
・「人間の一番の特徴は、日本の足で立って帳時間歩けることだ」
自分の足で歩くことで身体も鍛えられますが、五感が働くようになる。自分の身は自分で守らなくちゃいけないから、山に行くと五感が目覚めるのです。こういった経験を是非、して欲しいんです。だいたい、この美しい日本の山を自分の足で歩いて、眼で見ないなんてもったいないですよ。
池田理代子さん 1947年生まれ
「ベルサイユのばら」大ヒット。「オルフェウスの恋」で第九回日本漫画家協会賞優秀賞
1995年、東京音楽大学に入学し、卒業後はソプラノ歌手としても活躍中。
フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を贈られた。
・「夢は抱くべき、抱かなくては叶うこともないのだから。挫折や失敗を恐れてしないことよりも、挑戦せずに後悔することを怖れる」
・東京教育大学に入学。哲学科を選んだ。
・一年生の秋に家出したんです。
・稼ぐために漫画の世界に飛び込んだ。
自分で自分を養わなければ、社会を批判する資格はないと考えた結果、池田は都内に四畳半のアパートを借り、あらゆるアルバイトをして自活をめっざした。どんなに苦しくても、実家に援助を求めなかった。何日も食べ物買えず、ひもじい思いを経験した。
・工場で組み立てや旋盤の私語ををしたり、喫茶店のウェイトレスもしました。とにかく、いろんなことをやった。訪問販売もやろうとしたんですけれど、これはすぐに挫折した。他人のお家の呼び鈴を押すことができなったから。これだけやってみると、自分の向き、不向きがわかります。私はだいたい、人前に出ることが苦手なんです。人見知りでしたから。それに朝、決まった時間に起きて、決まった場所に通う、というのも苦手なんだとわかった。それで人に会わなくていい、自宅でできる仕事はないかと考え、思いついたのが漫画を描いて売ることだったんです
・絵を描くのは好きだったけれど、ストーリーのある漫画を描いたことなんて、なった苦ありませんでした。でも、とにかく見様見真似で描き上げて、出版社に行ったんです。
集英社「話にならない」
講談社「『うちの雑誌に掲載できるようなレベルじゃない』と言われたのですが、同時に貸本専門の出版社を紹介してくれた。『うちではちょと無理だけれど、あなたには、何か、きらめくものも感じるから、少しこういったところで勉強してみたらいい』と言ってくれて」。
貸本専門出版社が出す単行本で、漫画家としてのスタートを切ったのだった。200頁を好きなように描ける。19歳から21歳まで、貸本用漫画を徹底s禎描き続けたことにより、公正両区が身に付いたという。
・集英社の「マーガレット」に迎えられた池田は、短い連載や読み切り作品を発表するゆおになる。池田は大学三年生だったが、忙しくて大学には、ほとんど通えなくなっていた。ひたすら部屋にこもり、仕事をする日々が続いた。
漫画雑誌は毎回、読者アンケートを取る。人気ランキングでトップになれないと、長編連載なんてさせてもらえません。池田の描く作品は、毎回、読者からの評価が高かった。その結果、一般紙デビューを果たしてから三年後、ついに「次は描きたいものを連載で」と編集者から言われた。
池田はすぐに、「マリー・アントワネットらが登場する、フランスの歴史漫画を描きたい」と『ベルサイユのばら』の構想を打ち明けた。しかし、編集者たちは一様に強く反対した。「必ず当ててみすます」と言い返して、押し切ったんです。
・池田はそれまで、女性として生まれた以上、子供を産み育てたいと強く思っていた。その未知が決定的断たれたとわかりショックを受けたが、逆に、それまでの気負いが自分の中から消えていく契機になったとも振り返る。
「残された人生で自分は何がしたいのか」と立ち止まって考えられた。自分は音楽が好きだった、音楽の道に進みたかったんだって。
・「私は悔いのない人生を送りたかっただけです、にんげんはあらゆる時点で選択をする。・・・。やらなかったことを後悔する人生、あの時、音大受験をしなかったら、ずっと後悔し続けて人生に悔いが残ったとおもう。挑戦して良かった」。
仕事も恋愛も、迷わず飛び込んでみる。世間体を気にして妥協したり、躊躇する必要はないと考える。
山根基世さん 1948年生まれ
早稲田大学文学部
NHKアナウンサー。2005年 女性初のアナウンス室長。2005年紅白歌合戦の総合司会者を担当、2007年退職後はナレーションなどを。2009年、徳川夢声市民賞受賞。
・「私と同期の男性アナウンサーたちは、定年までに多い人で10回ぐらい、転勤を経験します。ですから、男性の同僚の中には、『女性アナウンサーは優遇されている』と不満を言う人もいました。私自身、長く男性たちに対して申し訳ない、という重いで過ごしてきました。けれど、後年、自分が組織を動かさなきゃならない立場になってから、この認識を改めた。『地方局赴任しなくては学べないことがったのに、私たち女性はその機会を奪われていたんだ。優遇じゃなくて、差別されていたんだ』と思うようになった。地方局というのは人数が少ないから、アナウンサーであっても、取材をしたり、番組制作に携わります。技術の人たちとも付き合う。つまり、地方局に赴任すれば、包装に必要なすべての知識を得ることができるんです」。
・組織の中で力のある男性に理不尽なことを要求され、それを断る。これは実際には簡単にできることではありません。勇気がいるし、仕返しされるんじゃないかと怯える人もいます。だから、嫌でも、嫌だと言えない女性が多いんです。
・いろいろと思い悩むことも多かったのですが、私はとにかく、まずはアナウンサーとしての技術を磨くしかないと思った。
・30代半ばを過ぎる頃から、山根でも出演依頼が減っていった、NHKの職員であるから解雇される心配はないが、自分が不要とされているようで気持ちがふさいだ。
「38歳ぐらいの時、『おまえにやってもらう仕事、もないよ』と、男性のアナウンス室デスクにいわれました」。
・「自分の買ったマンションで、たったひとりでご飯を食べていたら、どうしようもなく悲しくなって泣きました。もう限界だ。もうダメだ、心からそう思いました」。
誰かと一緒に暮らしたいと切実に思った山根は、自分からある男性にプロポーズした。5年ほど友人付き合いをしてきた、13歳年長の医師で、当時は偉大の教授をしていた。その間には二度も彼からプロポーズされていたという。だが、二度とも山根が断っていた。我ながら身勝手だと思いました。彼に失礼なんじゃないかな、とも思った。でも、彼は全く気にせず、私の申し出を受けてくれた。でも、あの時、結婚して本当に良かった。結婚後は、職場や仕事で嫌なことがあっても、ワ~と、夫に吐き出せるようになった。
・山根はアメリカでベストセラーとなった『ビジネス・ゲーム』という本を読み、思わず膝を打った。会社は軍隊と同じ仕組みで、トップのいうことは絶対である。そういった組織の仕組みを男性たちは小さい頃から野球やサッカーといった集団競技を通じて自然と学んでいく、と書かれていた。
「もっと早くに読んでいれば、私も余計な苦労はしないで済んだのにと思いました」
・宇野重吉さん
「(声は)思えば出る」
まさに声と心はつながっているんだと、実感したしごとでした。(「映像の正規」も担当しているが、これが、ナレーションの転機になったばんぐみだという)
・アナウンス室長として
・アナウンス室の局内評価を高めるための努力だった。
・アナウンサーも海外勤務ができる仕組みを作りたい考え、局内に働きかけて実現させた。
・本人が希望し、また適性があれば、他部署にも担務変更できるように人事の壁を取り払うように努力した。
・女性アナウンサーの異動
・「朗読指導者養成講座」を開いている。
三遊亭歌る多さん 1962年生まれ
國學院大學経済学部中退。落語家、1987年二つ目に昇進。1993年女性初の真打
・落語との出会いはラジオだった。
「みのもんたさんの大ファンで、みのさんのラジオ番組を聞いていたんです。みのさんが番組を降りる子tになって、しあkたく代わりに聞くようになった番組が春風亭小朝師匠だった。この小朝tって人はどんな顔をしている奴なんだろう」
小朝師匠が出るというので見に行ったんです。その時の出し物が、古典落語の『子別れ』でした。小朝師匠と立川談志師匠のリレー落語。それあ、もう、とっても面白くて、『落語ってかっこいい』って、いっぱんで思っちゃったわけです。
・「ある日、師匠三遊亭圓歌の噺を聞いたら、とっても面白かった。それで、『この師匠いいな。この人の弟子になろう』と勝手に心で決めたんです。
・母ややっぱり心の内では、一貫して、なんとか阻止したい、話をぶち壊したい、と思っているわけだから、師匠と向き合ったら、悪態をつきましてね。「うちの娘は本当は、あなたじゃくて圓楽師匠のことが好きなんですよ」、なんてことおを言い出したんですよ。でも、これはまったく逆効果だった。うちの師匠も江戸っ子ですからね。他の噺家さんの名前を出されたら穏やかじゃない。火がついちゃったんですよ。「上等じゃねえか」みたいな。それで勢い、母に、「お宅のお嬢さん、ちょっと預からせていただきましょう」となった。母の作戦は完全に裏目に出たわけです。
歌る多は、この時、まだ18歳。落語と出会ってからの歳月も二年程度である。
「落語家になるつもりなら、まずは結婚は諦めろ」って最初に言われました。師匠は、結婚した女の芸人で大成した人はいない、といのが持論だったんです。「男はいくら作ってもいい。子どもを産んでもいい。でも、結婚はダメだ」って。真面目な顔で言われた。
そしたら、まだ続きがありまして、「大学は辞めろ」。保健みたいに学校をとっておくのはダメだって、師匠は思ったんでしょう。
・「夏休みが終わるまで預かっていればいいだろう。せいぜい10月になれば、諦めて帰っていくだろう」って。最近、師匠に「お前、俺のとこに来て何年目だ」って聞かれて、「まだいたか、水分長い夏休みだよな」って笑われました。
・「師匠に逆らったりする時は、どうしたらいいんですか」
兄弟子が「師匠に怒られて破門されそうになった時、男は頭を坊主にして詫びるんだよな」と教えてくれたんです。
私は「なるほど」と思いまして、すぐに床屋さんに行きました。「坊主にしてくれ」って、まあ、五分刈りですけれど、頼みました。
「師匠、お願いです。私は三味線漫談をやるのは「嫌です。落語家にさせてください」と頭を下げて、一生兼三重頼みましt。師匠も土肝を抜かれたんでしょうね。もう、びっくりした顔をして、「わ、わかった」って、諦めてくれました。
・歌る多自身も、「落語は本来、男が語るようにできているのではないか」「女のやるものでないのではないか」という重いに、ふと、囚われることがあった。
・協会としては、「女真打だって真打なんだよ」と私たちにはせつめいして、一方で男の協会員には「あれは女真打だからな、真打っていってもべうなんだよ」と言って、なだめているようでした。・・・、今でこそ思いますが、当時は辛かったです。
その後、「女真打」を止めにして、「真打」だけにしたんです。落語芸術協会で女性が真打に昇進したのが理由です。
「文芸春秋」に掲載した記事では、9名の方を取りあげたのだが、本書では7名となった。
女性初の警察庁キャリア官僚の田中俊恵さん 現役の国家公務員であることから、書籍での取材は辞退したいとの由。
女性初の東大教授である、社会人類学者の中根千絵せんせいである。ご体調を崩され、書き上げた原稿に目を通していただくことが叶わなくなった。
感想;
先駆者は様々な壁に挑戦してこられたのでしょう。
強い思いとそれをやり抜く力、なによりも人一倍の努力をされてこられたように思いました。
石原一子さん 1924年生まれ
東京女子大卒業後、一橋大に初の女子学生として入学。卒業後、高島屋入社。1979年、女性初の役員(一部上場企業における初めての女性役員。常務取締役、経済同友会にも初の女性会員
・英語の先生は私たちに、「これからはやっぱり女性も勉強して世の中を知らないといけない」と、いつもおっしゃっていたしね。
・夏休みに突然、チフスが大流行して女学校の寄宿生と寮監が22名なくなった。
「当時は原因不明とされましたが、戦後になってハルビン郊外にあった日本軍の細菌研究施設、731部隊が私たちが生活用水として使っていた溜池にチフス菌を撒いたからだと聞いた。もし、それが事実なら私は絶対に許せない。その上、彼らは自分たちの人定実験の結果を書いた資料を米軍に渡すことと引き換えに罪を逃れたと聞いて」
・当時は小学校を卒業したら男子は中学、女子は女学校にしか進学できない。それは単に性別で通う先を分けているだけだと思っていたけれど、教育の質まで別だったなんて。
「そうか、国は女にはこの程度の教育でいいと考えているんだ。男子と教育に差をつけているんだ」って初めて知って悔しく思た。それで私の中に闘争心が芽生えたのよ(笑)。
・女性でもしっかりとした知識を身に付けるべきだという東京女子大学の教育理念には深く共感し、勉強に励んだ。
・新京から、身なりのいい日本人の紳士が乗ってこられ、私の隣に座られた。後に総合商社兼松の社長になる谷口三樹三郎さんでした。後々、私は、この谷口さんから、大きな影響を受けることになる。
・「知識は決して、その人から離れない」
・人生の目的を結婚んいおいて、家庭に入って一生を終えよう、なんて考えは私にはなかった。
・東京女子大の寮監の先生からのお手紙でした。
「新制の大学教育がスタートした。女性でも、男子と同等の大学教育が受けられるようになったのだから、身体一つでも、東京に出てきたほうがよい」
両親を説得して、ついに一家で東京に出た。石原は受験して東京商科大学(一橋大学)への入学を果たす。一橋大学にとって初の女子学生となった。卒業するまで女性は石原ひとり。
・当時の銀行は大卒女性を男性と同じ条件で採る気なんてまったくない。
・高島屋の役員面接で、石原ははっきりと、「女性を活用しないと会社として損なのではありませんか」と発言した。
・課長から露骨に嫌われて、それで婦人服売り場から台所用品売り場に飛ばされたの。デパート業界では、繊維から台所っていうのは左遷。でも、私はまったくめげなかった。「ここでも売って自分の正しさを証明してみせる」って奮起した。とにかく上司が私の言う物を仕入れさえすれば、有難いことに私の予想通りに売れてくれる。数字が私の感性の正しさを証明してくれたの。
・初めて営業部長を口説いてアメリカからバイロセラムの鍋を船一艘分、買い付けるという決断をした。次の船便は半年先か一年先だから、その間、高島屋だけで独占して売ることができる。船の積み荷を全部買うって勇気がいるけれど、これが見事に当たって、会社はだいぶ儲けたの。
・私は仕事をし続けたいと思ったけれど、だからといって結婚や、出産を諦める気なんて、まったくなかった。子どもか仕事か、という考え方自体がおかしいと思っていたもの。どうして片方を諦めなくっちゃいけないの。子どもも欲しい、家庭も欲しい、仕事も欲しい、それでいいじゃないの。
・「前例がないなら、自分で造ればいい」
育児休暇という制度は、まだ社会になかった。こうした中で、石原はひとりで会社にかけ合い、三か月だけ職場を休んで出産すると、すぐに現場に復帰した。
38歳になった時、二度目の妊娠をした。二人目を出産しても働くという医師原に、周囲は冷ややかだった。
・女性社員の妊娠をマイナスとしか受け取らない会社に対して、石原には、「女性社員の経験こそが会社の宝なのだ」と、自分が先頭に立って証明してみせたいという気持ちがあった。それと同時に、母親となった女性たちの切実な悩みや要求に応えたいという重いもあった。
物を売るだけではダメだ。女性に生活スタイルや、「ライフ」そのものを提言し、提供したい。石原はそう考えるようになっていた。
「ちょうどその頃、ナイロン製品が出回るようになり、大変なブームだった。ベビー用品にもナイロン製品を使うべきだと、東レの営業マンが強気で売り込んできた。けれど私は、赤ちゃんには絶対に綿100%の、ナチュラルな商品のほうがいいと思っていた。だから耳を貸さなかった。最後は営業マンを論破して追い返した。
・子どもはよく食器を落とす。落として割れない、ということでプラスチック製品が重宝らられていたのだ。だが、当時は熱湯を注ぐと有害物質が溶け出す可能性も指摘され、厚生省がプラスチック製品の衛生基準を強化した時期でもあった。
「特に赤ちゃんには安全な食器を届けたい。大人が使うのと同じ冬季で食べさせてあげたいと思い、日本陶器(ノリタケ)を訪れて子ども用に強度をアップした商品の開発を依頼し、高島屋のオリジナルベビー食器として売り出しました。これが大変なヒット商品になった。今でも売られています。
・アメリカでキャリアウーマンの指南書としてベストセラーになった話題作の翻訳を石原は手がけた。「男子のように考え、レディのようにふるまい、犬のごとく働け」デレク・A・ニュートン著
・石原が手がけたことがひとつある。それは女性社員の「再雇用制度」。
・「やっぱり、人間は自分の思う道に進んで、やりたいことをやりきらなくては後悔が残ると思う。諦めることは簡単ですよ」。
・働くことは生きること。
杉内壽子さん 1927年生まれ
囲碁棋士。女性として初めての八段。女流選手権を四期、女流名人を四期
日本棋院の女流棋士会長、棋士会会長を長く務めた。
・古めかし印象を持たれがちな囲碁界であるが、こと女性の進出という点でいえば、むしろ非常に拓かれていたと言っていいだろう。江戸時代の末期にはすでに女性の棋士がおり、活躍していた。
・父は「囲碁教授」の看板を掲げた。
「父が私に囲碁を教えたのは、女性の可能性を追求してみたい、と考えたからだそうなんです。プロの世界では四段以下を低段者、五段以上を高段者としており、四段以下は少し低く見られる。当時も女性のプロはいましたが、全員が低段者で高段者はひとりもいなかった」。
思い立つと栄三(父)は、さっそく自分で編み出した英才教育を壽子に施した。それは生活全般にわたす、非常に厳しいものであった。
「朝起きますと、まず冷たいタオルが置いてありまして、それで冷水摩擦をします。それから庭に出てラジオ体操。それから、ひとり碁盤に向かって歴史上の名人が打った語を並べて、囲碁の勉強を致しました。それが済ましてから、ようやく朝ご飯です」。
・修行と稽古(指導碁)に日々を捧げ、1944年には大手合の二部(四段以下)で全勝し、早くも初段から二段に昇段する。
・三人の子どもを授かったことは、壽子の生活を根本から変えた。
「私よりも先輩の女性棋士の方で結婚し、お子さんも持っておられるというかたは、ひとりもいなかった」。
お世話になった財界人の大倉喜七郎先生からのお手紙でした。
「あなたはいつまで休んでいるのですか。あなたの女性のパイオニアとしての使命はどうなりましたか」と私を叱咤する大変厳しいお言葉が並んでいました。
私はそれを読んで、ハッとしました。
「ああ、そうだ、本当にそのとおりだ。私にはまだやらなければいけないことがある。いつまでも休んでいてはいけない」、そう心から思いました。そこえ復帰することにしたんです。
・夫に、こう言われました。
「あなたは十年休んだんですよ。だから十年かけて取り戻せばいいんです。だいた勝ち負けで落ち込むのはおかしいですよ。一局一局、勉強させてもらう、そういうつもりで打ったらどうですか」
このひと言を聞いて、私は本当にそのとおりだと思いました。
「次は、この人に教えてもらえるんだ」と対局が待ち遠しくなった。そんなことで三年くらい経ちましたら、だいぶ勘が戻ってきました。
・1973年には七段になれました。1982年には、八段に昇段した。大手合に全勝するという快挙をも成し遂げる。
赤松良子さん 1929年生まれ
津田塾専門学校(津田塾大学)、東京大学法学部。労働省。1982年労働婦人少年局長。
男女雇用均等法成立の立役者となる。細川内閣、羽田内閣で文部大臣。
・食べるものがない。屋敷も焼けた。財産も失った。戦前の生活から一転して、赤松家は苦境を強いられていたらが、赤松には夢があった。入学したい学校があったのだ。東京の津田塾である。
ひとまず神戸女学院専門学校英語学科に入ったものの、七か月経ったところで赤松は健康を害して休学し、そのまま退学した。学ぶならば、津田塾に行きたいという重いがあった。そして、それを後押ししてくれたのは、やはり母だった。
・「母の理想としては、私に津田で英語を勉強させて、大阪に戻ってきて近所の女学校の英語の先生になってもらいたい。そう考えていたんだと思う」。
・せっかく男性と同等の教育が受けられる時代になったのに、姉はその恩恵に恵まれなかったのだ。ならば、その分まで自分が享受しよと赤松は思った。時代の幸運に巡り合ったのだから、努力して、その果実を掴むべきだと考えたのだ。赤松はそこで、東京大学の法学部を受けると決意する。女性は赤松を含めて四人だけだった。
・「別に法学や政治学を学びたいと思って法学部に進んだわけでじゃない。私は職業婦人になちたかったわけで、実益として法学部を恨んだのよ」。
・「なぜ労働省かって、聞かれると驚くわ。だって、当時は労働省しか女性を入れてくれなかったんだもの」。
GHQによって労働省は千五に新しく設置された省だった。省内には「婦人少年局」という部署があったが、これはGHQが本国の「労働省婦人局」を意識して設けたもので。日本の婦人問題とかきけつしていくための拠点と位置付けられていた。「局長は女性であること」とGHQが厳命し、すべての省庁のなかで、唯一、初代から女性が局長を務めていた。GHQの抜擢により初代局長を務めたのが、社会運動家の山川菊栄、二代目の局長は津田塾の学長となる、藤田たき、三代目以降も、ずっと諸税で占めれており、後に赤松も名七代目の局長となる。
・本省内ではなく埼玉労働基準局調査課に調査員として贈られたのだ。・・・。これは、入省五年目の男性のキャリア官僚には絶対に、やらせない仕事です。・・・。憤懣やるかたなかったけれど、省内で、「差別だ」と言って争えるかといったら、微妙なところ。たから、騒がずに我慢した。
赤松自身が労働省で、職場における性差別をを実際に体験したのだ。疑問が彼女の中に蓄積されていった。
・約三年間、山梨で過ごす(山梨労働基準局長)ことになったが、その間には、物を読み、書き、勉強する時間を持ったという。
・「男女雇用機会均等法」制定への闘い
とにかく作ることを優先しようと思った。とにかく作って、あとは快晴を重ねて理想に近づけていけばいい。当時、そう思っていた。実際、その後、二回も三回も改正されて、青の頃は生ぬるいと言われたけれど、努力義務規定しかなかったことも、その後は強硬規定にできたし、理想にどんどん近づいてきている。だから私がしたことは正しかったと今でも思っています。
当時、国会の外でも議論が巻き起こった。「男は仕事、女は家庭」という役割分担こそ日本文化そのもであり、主婦の存在を評価しない男女雇用機会均等法は開く方である、といった趣旨の、ひどく幼い論調(長谷川三千子)埼玉大学助教授)であった
田部井淳子さん 1939年生まれ
昭和女子大学英米文学科。女子登攀くらぶを1969年に設立。1975年日本女子登山隊副隊長として女性として世界で初めてエベレスト登頂に成功する。1992年、女性で世界初の七大大陸最高峰登頂者に。
・「私は登山家ではありませんから」
登山家と名乗るのは、登山によって収入を得る人たちであって、自分はそうではない。スポンサーを求めず、自己資金で自分の登山をしてきた。
・「初めて登山を経験したのは、少額4年生の時のことです。担任の渡辺先生が山好きで、昼休みに学校の授業とは関係なく、『自分は夏休みに山に登るが、一緒に行きたい者は連れていくぞ』とクラス全体に声をかけてくれたんです」。
「学校の教科書とか黒板では習えないことがたくさんあるんだ」って。自分の目で見て、自分の肌で感じ取った、驚きと気付きの感覚。それが私の原典になっていると思います。
・本格的な登山に臨むには、ひとりでは無理だ。山岳会に所属し、仲間たちと隊を作って登らなくてはならない。また、切磋琢磨できる仲間も欲しかった。
・しだいにアタッカーになれる人は、体力、技量面から自然と絞られていった。第二キャンプまでは全員が登れたが、そこから先はアタッカー広報だけが進むことになった。
「隊長がアタッカーを選ぶのですが、私と渡辺退院の二人が候補者として指名された」。
・この騒ぎ(エベレスト登頂に女性初)の中で、とても嫌だったことがあります、それは、私の名前だけが取り沙汰されたことです。確かに頂上まで行ったのは私ひとりだったけれど、「女子登攀クラブ」が登頂に成功したんです。それなのに、私の名前だけが紹介される。フェアじゃないと思いました。他の隊員だって、そう思ったはずです。
・家庭も仕事も山も諦めない
「子どもがいるのに、山に登って」「子どものことを考えていない母親だ」といった批判を面と向かってされることもあった。
・「人間の一番の特徴は、日本の足で立って帳時間歩けることだ」
自分の足で歩くことで身体も鍛えられますが、五感が働くようになる。自分の身は自分で守らなくちゃいけないから、山に行くと五感が目覚めるのです。こういった経験を是非、して欲しいんです。だいたい、この美しい日本の山を自分の足で歩いて、眼で見ないなんてもったいないですよ。
池田理代子さん 1947年生まれ
「ベルサイユのばら」大ヒット。「オルフェウスの恋」で第九回日本漫画家協会賞優秀賞
1995年、東京音楽大学に入学し、卒業後はソプラノ歌手としても活躍中。
フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を贈られた。
・「夢は抱くべき、抱かなくては叶うこともないのだから。挫折や失敗を恐れてしないことよりも、挑戦せずに後悔することを怖れる」
・東京教育大学に入学。哲学科を選んだ。
・一年生の秋に家出したんです。
・稼ぐために漫画の世界に飛び込んだ。
自分で自分を養わなければ、社会を批判する資格はないと考えた結果、池田は都内に四畳半のアパートを借り、あらゆるアルバイトをして自活をめっざした。どんなに苦しくても、実家に援助を求めなかった。何日も食べ物買えず、ひもじい思いを経験した。
・工場で組み立てや旋盤の私語ををしたり、喫茶店のウェイトレスもしました。とにかく、いろんなことをやった。訪問販売もやろうとしたんですけれど、これはすぐに挫折した。他人のお家の呼び鈴を押すことができなったから。これだけやってみると、自分の向き、不向きがわかります。私はだいたい、人前に出ることが苦手なんです。人見知りでしたから。それに朝、決まった時間に起きて、決まった場所に通う、というのも苦手なんだとわかった。それで人に会わなくていい、自宅でできる仕事はないかと考え、思いついたのが漫画を描いて売ることだったんです
・絵を描くのは好きだったけれど、ストーリーのある漫画を描いたことなんて、なった苦ありませんでした。でも、とにかく見様見真似で描き上げて、出版社に行ったんです。
集英社「話にならない」
講談社「『うちの雑誌に掲載できるようなレベルじゃない』と言われたのですが、同時に貸本専門の出版社を紹介してくれた。『うちではちょと無理だけれど、あなたには、何か、きらめくものも感じるから、少しこういったところで勉強してみたらいい』と言ってくれて」。
貸本専門出版社が出す単行本で、漫画家としてのスタートを切ったのだった。200頁を好きなように描ける。19歳から21歳まで、貸本用漫画を徹底s禎描き続けたことにより、公正両区が身に付いたという。
・集英社の「マーガレット」に迎えられた池田は、短い連載や読み切り作品を発表するゆおになる。池田は大学三年生だったが、忙しくて大学には、ほとんど通えなくなっていた。ひたすら部屋にこもり、仕事をする日々が続いた。
漫画雑誌は毎回、読者アンケートを取る。人気ランキングでトップになれないと、長編連載なんてさせてもらえません。池田の描く作品は、毎回、読者からの評価が高かった。その結果、一般紙デビューを果たしてから三年後、ついに「次は描きたいものを連載で」と編集者から言われた。
池田はすぐに、「マリー・アントワネットらが登場する、フランスの歴史漫画を描きたい」と『ベルサイユのばら』の構想を打ち明けた。しかし、編集者たちは一様に強く反対した。「必ず当ててみすます」と言い返して、押し切ったんです。
・池田はそれまで、女性として生まれた以上、子供を産み育てたいと強く思っていた。その未知が決定的断たれたとわかりショックを受けたが、逆に、それまでの気負いが自分の中から消えていく契機になったとも振り返る。
「残された人生で自分は何がしたいのか」と立ち止まって考えられた。自分は音楽が好きだった、音楽の道に進みたかったんだって。
・「私は悔いのない人生を送りたかっただけです、にんげんはあらゆる時点で選択をする。・・・。やらなかったことを後悔する人生、あの時、音大受験をしなかったら、ずっと後悔し続けて人生に悔いが残ったとおもう。挑戦して良かった」。
仕事も恋愛も、迷わず飛び込んでみる。世間体を気にして妥協したり、躊躇する必要はないと考える。
山根基世さん 1948年生まれ
早稲田大学文学部
NHKアナウンサー。2005年 女性初のアナウンス室長。2005年紅白歌合戦の総合司会者を担当、2007年退職後はナレーションなどを。2009年、徳川夢声市民賞受賞。
・「私と同期の男性アナウンサーたちは、定年までに多い人で10回ぐらい、転勤を経験します。ですから、男性の同僚の中には、『女性アナウンサーは優遇されている』と不満を言う人もいました。私自身、長く男性たちに対して申し訳ない、という重いで過ごしてきました。けれど、後年、自分が組織を動かさなきゃならない立場になってから、この認識を改めた。『地方局赴任しなくては学べないことがったのに、私たち女性はその機会を奪われていたんだ。優遇じゃなくて、差別されていたんだ』と思うようになった。地方局というのは人数が少ないから、アナウンサーであっても、取材をしたり、番組制作に携わります。技術の人たちとも付き合う。つまり、地方局に赴任すれば、包装に必要なすべての知識を得ることができるんです」。
・組織の中で力のある男性に理不尽なことを要求され、それを断る。これは実際には簡単にできることではありません。勇気がいるし、仕返しされるんじゃないかと怯える人もいます。だから、嫌でも、嫌だと言えない女性が多いんです。
・いろいろと思い悩むことも多かったのですが、私はとにかく、まずはアナウンサーとしての技術を磨くしかないと思った。
・30代半ばを過ぎる頃から、山根でも出演依頼が減っていった、NHKの職員であるから解雇される心配はないが、自分が不要とされているようで気持ちがふさいだ。
「38歳ぐらいの時、『おまえにやってもらう仕事、もないよ』と、男性のアナウンス室デスクにいわれました」。
・「自分の買ったマンションで、たったひとりでご飯を食べていたら、どうしようもなく悲しくなって泣きました。もう限界だ。もうダメだ、心からそう思いました」。
誰かと一緒に暮らしたいと切実に思った山根は、自分からある男性にプロポーズした。5年ほど友人付き合いをしてきた、13歳年長の医師で、当時は偉大の教授をしていた。その間には二度も彼からプロポーズされていたという。だが、二度とも山根が断っていた。我ながら身勝手だと思いました。彼に失礼なんじゃないかな、とも思った。でも、彼は全く気にせず、私の申し出を受けてくれた。でも、あの時、結婚して本当に良かった。結婚後は、職場や仕事で嫌なことがあっても、ワ~と、夫に吐き出せるようになった。
・山根はアメリカでベストセラーとなった『ビジネス・ゲーム』という本を読み、思わず膝を打った。会社は軍隊と同じ仕組みで、トップのいうことは絶対である。そういった組織の仕組みを男性たちは小さい頃から野球やサッカーといった集団競技を通じて自然と学んでいく、と書かれていた。
「もっと早くに読んでいれば、私も余計な苦労はしないで済んだのにと思いました」
・宇野重吉さん
「(声は)思えば出る」
まさに声と心はつながっているんだと、実感したしごとでした。(「映像の正規」も担当しているが、これが、ナレーションの転機になったばんぐみだという)
・アナウンス室長として
・アナウンス室の局内評価を高めるための努力だった。
・アナウンサーも海外勤務ができる仕組みを作りたい考え、局内に働きかけて実現させた。
・本人が希望し、また適性があれば、他部署にも担務変更できるように人事の壁を取り払うように努力した。
・女性アナウンサーの異動
・「朗読指導者養成講座」を開いている。
三遊亭歌る多さん 1962年生まれ
國學院大學経済学部中退。落語家、1987年二つ目に昇進。1993年女性初の真打
・落語との出会いはラジオだった。
「みのもんたさんの大ファンで、みのさんのラジオ番組を聞いていたんです。みのさんが番組を降りる子tになって、しあkたく代わりに聞くようになった番組が春風亭小朝師匠だった。この小朝tって人はどんな顔をしている奴なんだろう」
小朝師匠が出るというので見に行ったんです。その時の出し物が、古典落語の『子別れ』でした。小朝師匠と立川談志師匠のリレー落語。それあ、もう、とっても面白くて、『落語ってかっこいい』って、いっぱんで思っちゃったわけです。
・「ある日、師匠三遊亭圓歌の噺を聞いたら、とっても面白かった。それで、『この師匠いいな。この人の弟子になろう』と勝手に心で決めたんです。
・母ややっぱり心の内では、一貫して、なんとか阻止したい、話をぶち壊したい、と思っているわけだから、師匠と向き合ったら、悪態をつきましてね。「うちの娘は本当は、あなたじゃくて圓楽師匠のことが好きなんですよ」、なんてことおを言い出したんですよ。でも、これはまったく逆効果だった。うちの師匠も江戸っ子ですからね。他の噺家さんの名前を出されたら穏やかじゃない。火がついちゃったんですよ。「上等じゃねえか」みたいな。それで勢い、母に、「お宅のお嬢さん、ちょっと預からせていただきましょう」となった。母の作戦は完全に裏目に出たわけです。
歌る多は、この時、まだ18歳。落語と出会ってからの歳月も二年程度である。
「落語家になるつもりなら、まずは結婚は諦めろ」って最初に言われました。師匠は、結婚した女の芸人で大成した人はいない、といのが持論だったんです。「男はいくら作ってもいい。子どもを産んでもいい。でも、結婚はダメだ」って。真面目な顔で言われた。
そしたら、まだ続きがありまして、「大学は辞めろ」。保健みたいに学校をとっておくのはダメだって、師匠は思ったんでしょう。
・「夏休みが終わるまで預かっていればいいだろう。せいぜい10月になれば、諦めて帰っていくだろう」って。最近、師匠に「お前、俺のとこに来て何年目だ」って聞かれて、「まだいたか、水分長い夏休みだよな」って笑われました。
・「師匠に逆らったりする時は、どうしたらいいんですか」
兄弟子が「師匠に怒られて破門されそうになった時、男は頭を坊主にして詫びるんだよな」と教えてくれたんです。
私は「なるほど」と思いまして、すぐに床屋さんに行きました。「坊主にしてくれ」って、まあ、五分刈りですけれど、頼みました。
「師匠、お願いです。私は三味線漫談をやるのは「嫌です。落語家にさせてください」と頭を下げて、一生兼三重頼みましt。師匠も土肝を抜かれたんでしょうね。もう、びっくりした顔をして、「わ、わかった」って、諦めてくれました。
・歌る多自身も、「落語は本来、男が語るようにできているのではないか」「女のやるものでないのではないか」という重いに、ふと、囚われることがあった。
・協会としては、「女真打だって真打なんだよ」と私たちにはせつめいして、一方で男の協会員には「あれは女真打だからな、真打っていってもべうなんだよ」と言って、なだめているようでした。・・・、今でこそ思いますが、当時は辛かったです。
その後、「女真打」を止めにして、「真打」だけにしたんです。落語芸術協会で女性が真打に昇進したのが理由です。
「文芸春秋」に掲載した記事では、9名の方を取りあげたのだが、本書では7名となった。
女性初の警察庁キャリア官僚の田中俊恵さん 現役の国家公務員であることから、書籍での取材は辞退したいとの由。
女性初の東大教授である、社会人類学者の中根千絵せんせいである。ご体調を崩され、書き上げた原稿に目を通していただくことが叶わなくなった。
感想;
先駆者は様々な壁に挑戦してこられたのでしょう。
強い思いとそれをやり抜く力、なによりも人一倍の努力をされてこられたように思いました。