・母親カンガルーのおなかで、誰かの肌のぬくもりのなかで生きたい。空気や活力や生命そのもの以上にわたしが欲するのは、安全でいられて、ぬくぬくぬくもっていられて、世話をしてもらえることだ。
・自由はわたしたちをおびえさせる。それをわたしたちはまもなく知った。自由は女の子に負えそうもない可能性をいろいろ提供する。昇進、責任、男の道案内なしのひとり旅の機会、自分自身で友人をつくる機会。ありとあらゆる好機が女の前に広がってきたが、その自由とともに新たな要求もやってきた。
・依存を自覚し、欲求不満を感じ、腹立ちを感ずる女性たち、自立を望みながら、しかしそれがどういうことになるかを恐れる女性たち。束縛をかなぐり捨てようとする女性たちの努力を麻痺させているのは、実際、恐怖だった。
・シンデレラ・コンプレックス
女が本気で「解放」を目指す企ては、ただひとつしかない。そしてそれは、自分自身を内面から、解き放つことだ。本書の主題は、個人的、心理的な依存が-他者に面倒をみてもらいたいという根深い願望が-今日、女を押さえつけている主力だということにある。私はそれを「シンデレラ・コンプレックス」と名づける-網目のように入り組んだ抑圧された姿勢と恐怖、そのために女は一種の薄明かりのなかに放り込まれたまま、精神と創造性を十全に発揮できずにいる。シンデレラのように、女は今日もなお、外からくる何かが自分の人生を変えてくれるのを待ち続けているのだ。
・『女と金と力』で心理学者フィリス・チェスラーが述べるように、女は車のバックシートに何の心配もなくすわっていたいためにわざと(かならずしも意識的にではなく)そういうことをする。
「あらゆる階層の女性がが、家庭の内外を問わず、服従、卑下、無力を伝達するために基本的なボディランゲージを用いる……この姿勢は他人の気持ちをほぐし、男を『上位』に置こうとするものだ」
・「女性の恐怖症の多くは、過保護の親をもったことに原因があります」とルース・モールトンはいう。
・長いあいだわたしは、自分のかかえる問題は父に関係があるのだと感じていた。三十代になってようやく、実は母に対して抱いていた思いが、ごく幼いうちにわたしのなかで羽をひろげはじめた内なる葛藤の一部だったのではと気づきはじめた。
・母はただ服従していた。この同じ服従心をほとんどすべての女性のうちに見ながら、わたしは育ったのだ-自分の「面倒をみてくれている」男性、自分がすべてを依存している男性に、つき従っていかねばという要求。
・女性の所属欲求が男性より強いことを心理学者たちは早くから知っていたが、やっと最近、女児の研究がその理由に照準を定めた。湯尾時期に端を発する、自分自身への能力への根深く拭いがたい不信のためん、女の子は自分が生き延びるには庇護が必要なのだと確信するようになる。
・女の子は男の子を一歩リードしつつ人生のゲームを始める。言語、知覚、認識の面で、幼年期には女の子のほうが勝っている。
・幼い女の子の恐怖心は、しばしば母親のとる姿勢が原因で始まる。心配する母親は、この自分を-この母親を-不安にさせるゆおな行動をとらないよう、子供に教える。危険を避けるようにと幼い娘に教えることで、不安な母親は、知らぬ間に、子供が恐怖を扱うすべてを学ぶのを妨害する。
・いくつかの研究によれば、女の子は-とりわけ利発な女の子は-自信という面で深刻な問題をかかえている。彼女たちは自己の能力を過小評価する。さまざまな課題について-初めて挑むものも経験ずみのものもふくめ-自分がどれくらいうまくできるかと思うかと問うと、女の子は悪露この子よりも低い評価を出し、また通例、実際の出来をも過小評価する。
・自信のなさは多くの女の子の患う病であり、これに関連する幾多の問題へのtつながる。女の子は暗示にかかりやすく、誰かの反対にあうと、自分の知覚的判断を取り消す傾向がある。
・「過剰な手助け」がなぜそれほど破滅的なのか? 「学習は挫折に耐える能力を必要とするからさ」とローアス・ホフマンは説明する。「親が、それ助けろとばかりにすばやく反応すると、子供にそのような忍耐力が育たない」
・「自立をは、自分ひとりでやり遂げられる、事故の能力に頼ることができる、事故の判断を信頼できる、そういったことを学んだ結果、うまれるものである」と、ジュディス・バードウィックは『女性心理』で述べている。他者の助けがあるときのみ達成できるという観念を、女の子は一貫して強化される。そしてついには、人生の難問に独力で立ち向かえないという考えを内在化させるに至る。
・女性だけが罹る「依存病」とでもいうべきものがある。そのひとつが神経性無食欲症という奇怪な飢餓症候群だ。
・「従順な人格の女の子は、尊重され認められるためには、何か並々ならぬ自立を要することをしなければと思い込む。そして行きづまると、自分の手にある唯一の自立は、自分の肉体をコントロールすることだと思うのだと」と、この病気の権威であるヒルデ・ブルッフ博士は語った。
・「夫に依存せずして一体全体やっていけるものかという、多くの女性が抱く一種の怯えがあるのです」と、元保健教育福祉省のケネス・マクファーレンはいう。「彼女たちは、一生のあいだずっと、そんなことはできないと教えられてきました。これは条件づけのプロセスです」
・最初からわたしにとってのゴールは、申し分ない安心感を与えてくれる程度に夫にがんばってもらうことだった。彼の能力はわたしの能力だった。しかし、彼の失敗は彼自身のもの。
・ニューヨークの心理学者、ダグマー・オコナーは、ルーズヴェルト・ホスピタルのセックス・セラピー。プログラムで六百人以上の女性の診察に当たり、オルガスムのない患者とオルガスムを体験する女性とを比較した。オルガスムのないグループでは、88%の者が、子供時代から十代を通して「良い娘」だったと自己評価した。従順で、学校の成績がよく、両親との衝突もなかった。興味深いことに、オルガスムを体験する女性のきおの範疇にはいるのは30%にすぎなかった。
・女がいま経験している、いわゆる「二重負担」からくる疲労困憊は、葛藤の結果である-家にこもって女がこれまでずっと享受してきた家庭の安全にしがみついていたい気持ちと、自由になって自足したい要求とが衝突している。この未解決の、したがってそのなかにいると感覚が麻痺してしまう葛藤が、「ジェンダー・パニック」を生み、女を低レベルの仕事やもう飽き足らなくなった仕事に就かせておき、家庭で限界以上の状態をつづけさせるのだ。
・自由でありたいという要求と、籠に入れられて守られたいという要求の葛藤は、密かな増殖をもたらすがゆえに、油断ならない。・・・。依存の正体を突きとめないかぎり、それの徹底宗田は不可能だ。そのことだけは確かである。だから依存の傾向を見極めるのが、そこを通過する第一歩となる。意識的に、その徴候を探さ根がならない。
・内なる声が「動け!」と命じたあの瞬間は、正直いって、意志力とは何ひとつ関係ない。圧倒的な葛藤に直面して「自己の意志で奮い立ち」、死ぬ覚悟で行動に出るというのは不可能だ。もし意志力が答えであるなら、私はこの本を書かなかったろう。内なる自我の前方跳躍は、長くいぎぶかい過程の結果であった。内なる矛盾の正体を見極め、それから徹底操作に当たった過程である。意志に動けと命じることはできない。自分が明晰になり、葛藤を解消したときに、ごく自然に機能できるのだ。
・自由と自立は他者から-社会一般から、あるいは男から-もぎ取ることのできないということを、私は学んだ。そうではなくて、内面から苦心しつつ育てていくしかできないのだ。それを達成するには、安心したいがために松葉杖のごとく利用してきた依存心の数々を、残らず捨て去らねばならない。しかしその交換は、さほど危険ではない。自己を信ずる女は、能力を超えたむなしい夢を見て自己を欺く必要がないのだ。同時にまた、自分に適応能力があり、その用意もある課題を前にして、ぐらつくこともない。現実的で、地に足がついていて、自己を愛しているからだ。ついには、自由に他者を愛する-自己を愛するがゆえに、そうした一切は、どれもこれもが、自由へと跳躍した女に属する。
感想;
親は子どもが心配なので、失敗しないようになんでもやろうとしがちです。
しかし、失敗をするからこそ学ぶことができることも多くあります。
母親の幸せ感がもし、「女性は結婚して子どもを産むこと」だったとしたら、それは子どもを縛り付けたり、子どもの可能性を狭めているのかもしれません。
母親の幸せと娘の幸せとはもともとが別のものなのです。
シンデレラは、継母の虐めの酷い状況から、王子様が救ってくれました。
このシンデレラ・コンプレックスの本を読み、シンデレラは虐めに耐えてはいましたが、そこから脱出する企てについては何もなかったように思いました。
「待ちぼうけ」北原白秋作詞/山田耕筰作曲 ウイキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%85%E3%81%A1%E3%81%BC%E3%81%86%E3%81%91
歌詞は中国の法家の思想書の一つ『韓非子五蠹篇』の中にある説話「守株待兔(しゅしゅたいと、(くひぜをまもりてうさぎをまつ)」から録られたものである。
説話の内容は、昔宋に農民がいた。彼の畑の隅に切り株があり、ある日そこにうさぎがぶつかり、首の骨を折って死んだ。
獲物を持ち帰ってごちそうを食べた百姓は、それに味をしめ、次の日からは鍬を捨て、またうさぎがこないかと待っていたが、二度と来なかった。そのために作物は実らず、百姓は国の笑いものになった。
「待てば海路の日和あり」の言葉もあります。
待つことも大切です。
何もしない方がよいこともあります。
つまり、意図して何もしないことをすること。
しかし、何もしないと何も変わらないこともあります。
今どうすべきなのか、これはきっと多くの失敗を重ねて学ぶのでしょう。
失敗を体験するには限界がありますから、本から学ぶことがとても重要なのだと思います。
・自由はわたしたちをおびえさせる。それをわたしたちはまもなく知った。自由は女の子に負えそうもない可能性をいろいろ提供する。昇進、責任、男の道案内なしのひとり旅の機会、自分自身で友人をつくる機会。ありとあらゆる好機が女の前に広がってきたが、その自由とともに新たな要求もやってきた。
・依存を自覚し、欲求不満を感じ、腹立ちを感ずる女性たち、自立を望みながら、しかしそれがどういうことになるかを恐れる女性たち。束縛をかなぐり捨てようとする女性たちの努力を麻痺させているのは、実際、恐怖だった。
・シンデレラ・コンプレックス
女が本気で「解放」を目指す企ては、ただひとつしかない。そしてそれは、自分自身を内面から、解き放つことだ。本書の主題は、個人的、心理的な依存が-他者に面倒をみてもらいたいという根深い願望が-今日、女を押さえつけている主力だということにある。私はそれを「シンデレラ・コンプレックス」と名づける-網目のように入り組んだ抑圧された姿勢と恐怖、そのために女は一種の薄明かりのなかに放り込まれたまま、精神と創造性を十全に発揮できずにいる。シンデレラのように、女は今日もなお、外からくる何かが自分の人生を変えてくれるのを待ち続けているのだ。
・『女と金と力』で心理学者フィリス・チェスラーが述べるように、女は車のバックシートに何の心配もなくすわっていたいためにわざと(かならずしも意識的にではなく)そういうことをする。
「あらゆる階層の女性がが、家庭の内外を問わず、服従、卑下、無力を伝達するために基本的なボディランゲージを用いる……この姿勢は他人の気持ちをほぐし、男を『上位』に置こうとするものだ」
・「女性の恐怖症の多くは、過保護の親をもったことに原因があります」とルース・モールトンはいう。
・長いあいだわたしは、自分のかかえる問題は父に関係があるのだと感じていた。三十代になってようやく、実は母に対して抱いていた思いが、ごく幼いうちにわたしのなかで羽をひろげはじめた内なる葛藤の一部だったのではと気づきはじめた。
・母はただ服従していた。この同じ服従心をほとんどすべての女性のうちに見ながら、わたしは育ったのだ-自分の「面倒をみてくれている」男性、自分がすべてを依存している男性に、つき従っていかねばという要求。
・女性の所属欲求が男性より強いことを心理学者たちは早くから知っていたが、やっと最近、女児の研究がその理由に照準を定めた。湯尾時期に端を発する、自分自身への能力への根深く拭いがたい不信のためん、女の子は自分が生き延びるには庇護が必要なのだと確信するようになる。
・女の子は男の子を一歩リードしつつ人生のゲームを始める。言語、知覚、認識の面で、幼年期には女の子のほうが勝っている。
・幼い女の子の恐怖心は、しばしば母親のとる姿勢が原因で始まる。心配する母親は、この自分を-この母親を-不安にさせるゆおな行動をとらないよう、子供に教える。危険を避けるようにと幼い娘に教えることで、不安な母親は、知らぬ間に、子供が恐怖を扱うすべてを学ぶのを妨害する。
・いくつかの研究によれば、女の子は-とりわけ利発な女の子は-自信という面で深刻な問題をかかえている。彼女たちは自己の能力を過小評価する。さまざまな課題について-初めて挑むものも経験ずみのものもふくめ-自分がどれくらいうまくできるかと思うかと問うと、女の子は悪露この子よりも低い評価を出し、また通例、実際の出来をも過小評価する。
・自信のなさは多くの女の子の患う病であり、これに関連する幾多の問題へのtつながる。女の子は暗示にかかりやすく、誰かの反対にあうと、自分の知覚的判断を取り消す傾向がある。
・「過剰な手助け」がなぜそれほど破滅的なのか? 「学習は挫折に耐える能力を必要とするからさ」とローアス・ホフマンは説明する。「親が、それ助けろとばかりにすばやく反応すると、子供にそのような忍耐力が育たない」
・「自立をは、自分ひとりでやり遂げられる、事故の能力に頼ることができる、事故の判断を信頼できる、そういったことを学んだ結果、うまれるものである」と、ジュディス・バードウィックは『女性心理』で述べている。他者の助けがあるときのみ達成できるという観念を、女の子は一貫して強化される。そしてついには、人生の難問に独力で立ち向かえないという考えを内在化させるに至る。
・女性だけが罹る「依存病」とでもいうべきものがある。そのひとつが神経性無食欲症という奇怪な飢餓症候群だ。
・「従順な人格の女の子は、尊重され認められるためには、何か並々ならぬ自立を要することをしなければと思い込む。そして行きづまると、自分の手にある唯一の自立は、自分の肉体をコントロールすることだと思うのだと」と、この病気の権威であるヒルデ・ブルッフ博士は語った。
・「夫に依存せずして一体全体やっていけるものかという、多くの女性が抱く一種の怯えがあるのです」と、元保健教育福祉省のケネス・マクファーレンはいう。「彼女たちは、一生のあいだずっと、そんなことはできないと教えられてきました。これは条件づけのプロセスです」
・最初からわたしにとってのゴールは、申し分ない安心感を与えてくれる程度に夫にがんばってもらうことだった。彼の能力はわたしの能力だった。しかし、彼の失敗は彼自身のもの。
・ニューヨークの心理学者、ダグマー・オコナーは、ルーズヴェルト・ホスピタルのセックス・セラピー。プログラムで六百人以上の女性の診察に当たり、オルガスムのない患者とオルガスムを体験する女性とを比較した。オルガスムのないグループでは、88%の者が、子供時代から十代を通して「良い娘」だったと自己評価した。従順で、学校の成績がよく、両親との衝突もなかった。興味深いことに、オルガスムを体験する女性のきおの範疇にはいるのは30%にすぎなかった。
・女がいま経験している、いわゆる「二重負担」からくる疲労困憊は、葛藤の結果である-家にこもって女がこれまでずっと享受してきた家庭の安全にしがみついていたい気持ちと、自由になって自足したい要求とが衝突している。この未解決の、したがってそのなかにいると感覚が麻痺してしまう葛藤が、「ジェンダー・パニック」を生み、女を低レベルの仕事やもう飽き足らなくなった仕事に就かせておき、家庭で限界以上の状態をつづけさせるのだ。
・自由でありたいという要求と、籠に入れられて守られたいという要求の葛藤は、密かな増殖をもたらすがゆえに、油断ならない。・・・。依存の正体を突きとめないかぎり、それの徹底宗田は不可能だ。そのことだけは確かである。だから依存の傾向を見極めるのが、そこを通過する第一歩となる。意識的に、その徴候を探さ根がならない。
・内なる声が「動け!」と命じたあの瞬間は、正直いって、意志力とは何ひとつ関係ない。圧倒的な葛藤に直面して「自己の意志で奮い立ち」、死ぬ覚悟で行動に出るというのは不可能だ。もし意志力が答えであるなら、私はこの本を書かなかったろう。内なる自我の前方跳躍は、長くいぎぶかい過程の結果であった。内なる矛盾の正体を見極め、それから徹底操作に当たった過程である。意志に動けと命じることはできない。自分が明晰になり、葛藤を解消したときに、ごく自然に機能できるのだ。
・自由と自立は他者から-社会一般から、あるいは男から-もぎ取ることのできないということを、私は学んだ。そうではなくて、内面から苦心しつつ育てていくしかできないのだ。それを達成するには、安心したいがために松葉杖のごとく利用してきた依存心の数々を、残らず捨て去らねばならない。しかしその交換は、さほど危険ではない。自己を信ずる女は、能力を超えたむなしい夢を見て自己を欺く必要がないのだ。同時にまた、自分に適応能力があり、その用意もある課題を前にして、ぐらつくこともない。現実的で、地に足がついていて、自己を愛しているからだ。ついには、自由に他者を愛する-自己を愛するがゆえに、そうした一切は、どれもこれもが、自由へと跳躍した女に属する。
感想;
親は子どもが心配なので、失敗しないようになんでもやろうとしがちです。
しかし、失敗をするからこそ学ぶことができることも多くあります。
母親の幸せ感がもし、「女性は結婚して子どもを産むこと」だったとしたら、それは子どもを縛り付けたり、子どもの可能性を狭めているのかもしれません。
母親の幸せと娘の幸せとはもともとが別のものなのです。
シンデレラは、継母の虐めの酷い状況から、王子様が救ってくれました。
このシンデレラ・コンプレックスの本を読み、シンデレラは虐めに耐えてはいましたが、そこから脱出する企てについては何もなかったように思いました。
「待ちぼうけ」北原白秋作詞/山田耕筰作曲 ウイキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%85%E3%81%A1%E3%81%BC%E3%81%86%E3%81%91
歌詞は中国の法家の思想書の一つ『韓非子五蠹篇』の中にある説話「守株待兔(しゅしゅたいと、(くひぜをまもりてうさぎをまつ)」から録られたものである。
説話の内容は、昔宋に農民がいた。彼の畑の隅に切り株があり、ある日そこにうさぎがぶつかり、首の骨を折って死んだ。
獲物を持ち帰ってごちそうを食べた百姓は、それに味をしめ、次の日からは鍬を捨て、またうさぎがこないかと待っていたが、二度と来なかった。そのために作物は実らず、百姓は国の笑いものになった。
「待てば海路の日和あり」の言葉もあります。
待つことも大切です。
何もしない方がよいこともあります。
つまり、意図して何もしないことをすること。
しかし、何もしないと何も変わらないこともあります。
今どうすべきなのか、これはきっと多くの失敗を重ねて学ぶのでしょう。
失敗を体験するには限界がありますから、本から学ぶことがとても重要なのだと思います。