・道郎は、斎藤佳三から、ベルリン先住者の山田耕作を紹介された。
耕作は道郎にアドバイスしているうちに、彼には声楽の才能よりも、他の芸術が合っているのではないかと思うようになる。折りしも、オシアン・バレエがベルリンの多くの芸術家たちを、席捲しはじめていた時期でもあった。
・古荘から、ドイツ人声楽家を紹介するとの連絡があり、レッスンを受けるために、6月3日にベルリンを離れてライプチヒへ移った。そこはマリイ・レーマンという儒流オペラ歌手の家である。道郎はレッスンを受けながらも、耕作とベルリンで別れる前に「君はいいバリトンだが、全体としては声楽家よりは舞踏家向きだ」といわれた言葉を思い浮かべていた。
・7月に入って、ドレスデンのヘレラウ村にあるダルクローズ学院で学園祭が行われることを道郎は聞きつけた。ダルクロース学院が世界の注目を浴びていることを、耕作から聞き及んでいた道郎は、一度は観たいと思っていただけに、この機会を逃さなかった。
この舞台を観た道郎は、初めて舞台芸術の本物に出会ったような衝撃を受けた。そこで矢も楯もたまらず入学手続くをしようと行動する。
・道郎の目指したダルクローズ学院は、リトミック(律動運動)を使ったレッスンで、世界中から芸術家が訪れている学校である。だから入学についても厳しく、面接では、舞踊もテストされたが、帝劇過激部で習った日舞が案外に役立った。彼の身振りに、ただならぬセンスの良さを発見し、校長は入学を許可したようである。
・同じダルクローズ学院に学んだ児童教育の小林宗作は、帰国後、トモニ学園という学校を創った。そこではダルクローズのユーリズミックス(リトミック)を基調とした学習方法が取り入れられている。トモニ学園に学んだ黒柳徹子は、その授業風景を『窓ぎわのトットちゃん』の中に描き出している。それによると、「リトミックは、体の機械組織を、更に精巧にするための遊戯です。リトミックは、心に運転術を教える遊戯です。リトミックは、心と体に、リズムを理解させる遊戯です。リトミックを行なうと、性格が、リズミカルになります。リズミカルな性格は美しく、強く、すなおに、自然の法則に従います」といった小林の理解に基づいて行なわれた。
・学院には18か国から400人位の学生が集まっていただが、灯油尾人は道郎一人だけだった。そのため一挙手一投足に好奇の眼も注がれて、道郎が行動し発言するたびに、「日本人や東洋人はそんなことをするのか」とか「そんなことをいうのか」と尋ねられた。そんなわけで「僕の意見だが」といちいち説明書きをつけてものをいわなければならなかった。道郎は偏見を取り除くには練習しかない、とばかりに、人の数倍もものレッスンを積み重ねた。しかし、道郎にいかんともしがたいことが二つあった。一つは、肉体訓練のときである。海水着一枚になると、背丈は日本人としては高かったけれども痩身の道郎は貧弱に見られた。二つ目は、ピアノである。これは道郎のアキレス腱とおいえた。
・女学生だけでなく、道郎はピアノを除いては、教師たちに受けがよかった。
・道郎のダルクローズで学んだ期間は一年そこそこでしかなかったものの、その後の芸術観の大半をここで考え、身につけていった。
・8月14日にベルリンを脱出しようという日本人たちがレーアター駅に集まった。100名を超える同胞の姿に、故国に帰ったような錯覚に捉われた。道郎はベルリンからハノーバー、ザルツベゲンを経てオランダ国境のベンタイムへ到着する行程のなかで、戦争の空しさを感じていた。フリッシンゲンの港からロンドンへ渡った。
・それにつけても、さすがに連日のカフェ通いは道郎の生活を圧迫しはじめた。自活すると豪語した道郎だったが、別にあてがあったわけではない。
・カフェでの友人の一人がオットライン・モレル婦人のパーティへ行こうと誘いに来たのだった。しかも、彼女に道郎のダンスを見せると売り込んであるとのことだった。彼女は、数多い芸術家のパトロンの中でも、その名をひときわ知られていた。道郎は力の限り踊りまくった。彼女は、その場で道郎に自分のパーティでも踊ってくれるように、頼んだ。これで当分生活することができると思うと天に昇るような気持ちになった。あちらこちらのと芸術家のパトロンたちからのお呼びがかかるようになり、劇場はもとより慈善事業の寄付集めのパーティでも舞い続けた。
・道郎にニューヨークからの招請状が舞い込んできた。道郎から相談を受けたイエールは、三年ほどアメリカで修行してこい、と助言した。
・道郎は映画にも出演依頼があり、さらに多忙を極める。
・道郎は、女性関係については、来るもの拒まず、といった甘い面が認められた。それでなにも不自由することもなく、プレイボーイ的な生活を続けていたのだった。ところが、この頃より、特別一人の女性とだけ付き合うようになる。道郎の舞踊学校に在籍していた女性とで、ヘイゼル・ライトといった。
ヘイゼル・ライトの両親の許へ行ったが、両親は許さなかった。翌年の初めのころに懐妊する事態にまで進んだ。そこでヘイゼル・ライトが周囲の反対を押し切る形で二人は結婚したのである。
・20年ぶりに帰国した道郎を母喜美栄や兄弟たちが出迎えた。19歳で出国した道郎はまもなく38歳になろうとしていた。一行は、4月13日の帝国ホテルの試演会に臨んだ。この試演のあと、東京朝日講堂(3日間)、帝国ホテル演芸場、大阪朝日会館での各公演を催している。この公演中にに、真木竜子は、「伊藤道郎」の名前を初めて耳にした、と思い出す。
これら一連の公園は、現代舞踊の歴史の浅かった日本にしては、関心を呼び、客の入りも十分すぎるほどであったのに、採算面では赤字を計上している。もちろんそれは、道郎たちには知らされていない。その原因は、一行の日本見物を兼ねた滞在費用や、金銭感覚にうとい道郎が、夫人の目を盗んで京都や東京で芸者遊びにに精出したとあっては、いくら費用があっても足りなかった。一行の勧進元を引き受けた喜朔は、大損失だったが、黒字として、一行にいくばくかの収益金を渡したので、負債を一人でしょいこんでしまったのだ。そんな弟の心労を解らないまま、久々の日本の良い面ばかりを堪能して、道郎をはじめとした一行は岐路に就く。
・一路ハワイを目指す1749トンの秩父丸のデッキから華やいだ声が響き渡ってくる。船中には、日本人や日系人が乗り合わせている。
早川雪州、竹久夢二、佐野硯、翁久充
・道郎が、世界の各地で芸術的成功をおさめたのは、自分の個性を前面に押し出して、妥協を許さなかったからだ。ところが道郎は、家庭においても自己の信念を貫き通そうとした。つまり、自分の思う通り、気ままに行動したのだった。お金を渡さない、家に居つかない、といったことが度々だったのでは、家長制下の日本人妻でも忍耐に限度がある。ましてや、自らも芸術家としてのプライドを持った、ヘイゼル・ライト夫人は、そんな道郎を咎め、激しく口論するこtも多かった。この頃、ヘイゼル・ライトの我慢と怒りは、ついに限界に達したのだった。彼女は分かれうkとおを提案し、道郎の許を離れて行った。二人の子供は、一度ヘイゼル・ライト側に引き受けてもらったものの、他の家族になじめずに、道郎の家へ帰って来た。二人の面倒は艶が見ることになり、道郎は艶と正式に再婚する。
・道郎は、日米の戦力の差は歴然としており、一部の帝国主義者たちを除いて、日本人が開戦を望んでいないことをアメリカの友人たちに訴えた。
開戦寸前まで、戦争を回避するために努力した人々として海軍系の野村喜三郎、陸軍系の岩畔豪雄や井田忠雄、外務省・アメリカ局長の寺崎太郎などがいたことは知られているが、それと同様に、あるいはそれ以上に民間人として努力した道郎がいたのである。太平洋戦争は不幸な出来事ではったが、このように国内外で非戦的な運動を展開した人々が数多くいたことを私たちは忘れてはならない。
・家族の見守るなかを拘引された道郎は、ロッキー山脈とビタールート山脈に挟まれた山あいの町、モンタナ州ミズーラの収容地に送られた。
道郎の場合、国際結婚が絡んでいただけに、4人(子ども二人、艶、道郎)がそれぞれに引き裂かれるという残酷な目に合った。戦争は、こんな面においても人間性を無視した悲劇を作り出したのである。
・第二回の捕虜交換は、人選などで一時は中止かと危ぶまれ、大幅に遅れたすえに、ようやく翌43年10月19日にポルトガル領インドのマルゴン港(ゴア)で人員を交換することになった。
道郎は、長旅と、週湯尾署生活で別人のように痩せおとろえていた。
陸.海軍の幹部連が次々にやってきては、アメリカの現状などを尋ねて帰っていく。道郎も客観的なアメリカ情報を軍部に与えた。一段落すると、彼は、自分なりの戦争参加を考える。道郎は、芸術を逸脱した範囲でそれを考えるkとおなどできなかった。
道郎は、キャンプ・リビングストーンの中で「八紘一宇」(天下を一つの家のようにすること)についてずいぶん勉強している。その精神に支えられた、芸術活動ならば、軍部のきゅお感も得られると思いいたった。加えて、年来の「太陽の劇場」を表現できる可能性も探ってみた。「太陽の劇場」の上演が、民衆の精神を高揚させ、人気を高めていくのだと説いている。そして人々を太陽の慈愛に感涙させられる、これこそ「八紘為(一)宇」だと、軍部とは異なったニュアンスの下に展開していく。
道郎は12月に入ると、大東亜舞台研究所の名称でのレッスンを開始する。1クール終わった講習生の真木竜子らは引き続き、そこに参加している。
・9月に東京湾のミズリー号船上において、降伏文書の調印が終わると、GHQが置かれ、全国にGIたちがやってきた。
道郎についていえば、GHQは、FBIルートからロサンゼルスでの工作活動の事実をかなり正確につかんでいて、それが非戦的立場からのものであったことを確認していた。アメリカは情報量が多いこともあり、道郎のアメリカに対する貢献度も正当に評価されていた、したがって「大東亜舞台研究所」所長として立場も、共栄圏の礼賛者でなく、単なる芸術活動の一環としか見なされていないようだった。
46円の1月4日にGHQ民生局は、戦争責任者の公職追放を発表したが、もちろん、道郎の名前は含まれていない。道郎は、責任を追及されるどころか、アメリカ兵士の娯楽専用劇場「アーニー・パイル劇場」(東京宝塚劇場)の顧問兼総監督にさえ起用されたのだ。
こうして第一回公演『ファンタジー・ジャポニカ』の幕は開けられた。46年3月24西のことである。三千人のGIたちは敗戦国日本で本国でも観たことがないレビューに接して驚嘆させれた。
・道郎はロサンゼルス時代に、ミス・アメリカ大会に関係したことがあり、日本でのミス・コンテストのイベントの一部を委嘱される。そして、4月22日に、第一回のミス日本コンテストが開かれる。この時、ミス日本に選ばれたのは、山本富士子だった。
・すでに人生の全てを超越した境涯に至っていた道郎にふさわしい仕事が委嘱された。1964年に行われる東京オリンピックの開・閉会式の総演出の仕事だった。友人の武田恒徳(JOC元委員長で明治天皇の孫)の推薦だろう。(オリンピックの前に逝去)
感想;
昭和の激動期に舞踊でドイツで学び、英国、米国、日本で公演し続け、まさに西洋舞踊の先端を走って来られたのでしょう。
未知に挑戦し続けられた一生だったようです。
先のことを不安がるよりも、今できることをすることで未来を切り開いて来られたように思いました。
耕作は道郎にアドバイスしているうちに、彼には声楽の才能よりも、他の芸術が合っているのではないかと思うようになる。折りしも、オシアン・バレエがベルリンの多くの芸術家たちを、席捲しはじめていた時期でもあった。
・古荘から、ドイツ人声楽家を紹介するとの連絡があり、レッスンを受けるために、6月3日にベルリンを離れてライプチヒへ移った。そこはマリイ・レーマンという儒流オペラ歌手の家である。道郎はレッスンを受けながらも、耕作とベルリンで別れる前に「君はいいバリトンだが、全体としては声楽家よりは舞踏家向きだ」といわれた言葉を思い浮かべていた。
・7月に入って、ドレスデンのヘレラウ村にあるダルクローズ学院で学園祭が行われることを道郎は聞きつけた。ダルクロース学院が世界の注目を浴びていることを、耕作から聞き及んでいた道郎は、一度は観たいと思っていただけに、この機会を逃さなかった。
この舞台を観た道郎は、初めて舞台芸術の本物に出会ったような衝撃を受けた。そこで矢も楯もたまらず入学手続くをしようと行動する。
・道郎の目指したダルクローズ学院は、リトミック(律動運動)を使ったレッスンで、世界中から芸術家が訪れている学校である。だから入学についても厳しく、面接では、舞踊もテストされたが、帝劇過激部で習った日舞が案外に役立った。彼の身振りに、ただならぬセンスの良さを発見し、校長は入学を許可したようである。
・同じダルクローズ学院に学んだ児童教育の小林宗作は、帰国後、トモニ学園という学校を創った。そこではダルクローズのユーリズミックス(リトミック)を基調とした学習方法が取り入れられている。トモニ学園に学んだ黒柳徹子は、その授業風景を『窓ぎわのトットちゃん』の中に描き出している。それによると、「リトミックは、体の機械組織を、更に精巧にするための遊戯です。リトミックは、心に運転術を教える遊戯です。リトミックは、心と体に、リズムを理解させる遊戯です。リトミックを行なうと、性格が、リズミカルになります。リズミカルな性格は美しく、強く、すなおに、自然の法則に従います」といった小林の理解に基づいて行なわれた。
・学院には18か国から400人位の学生が集まっていただが、灯油尾人は道郎一人だけだった。そのため一挙手一投足に好奇の眼も注がれて、道郎が行動し発言するたびに、「日本人や東洋人はそんなことをするのか」とか「そんなことをいうのか」と尋ねられた。そんなわけで「僕の意見だが」といちいち説明書きをつけてものをいわなければならなかった。道郎は偏見を取り除くには練習しかない、とばかりに、人の数倍もものレッスンを積み重ねた。しかし、道郎にいかんともしがたいことが二つあった。一つは、肉体訓練のときである。海水着一枚になると、背丈は日本人としては高かったけれども痩身の道郎は貧弱に見られた。二つ目は、ピアノである。これは道郎のアキレス腱とおいえた。
・女学生だけでなく、道郎はピアノを除いては、教師たちに受けがよかった。
・道郎のダルクローズで学んだ期間は一年そこそこでしかなかったものの、その後の芸術観の大半をここで考え、身につけていった。
・8月14日にベルリンを脱出しようという日本人たちがレーアター駅に集まった。100名を超える同胞の姿に、故国に帰ったような錯覚に捉われた。道郎はベルリンからハノーバー、ザルツベゲンを経てオランダ国境のベンタイムへ到着する行程のなかで、戦争の空しさを感じていた。フリッシンゲンの港からロンドンへ渡った。
・それにつけても、さすがに連日のカフェ通いは道郎の生活を圧迫しはじめた。自活すると豪語した道郎だったが、別にあてがあったわけではない。
・カフェでの友人の一人がオットライン・モレル婦人のパーティへ行こうと誘いに来たのだった。しかも、彼女に道郎のダンスを見せると売り込んであるとのことだった。彼女は、数多い芸術家のパトロンの中でも、その名をひときわ知られていた。道郎は力の限り踊りまくった。彼女は、その場で道郎に自分のパーティでも踊ってくれるように、頼んだ。これで当分生活することができると思うと天に昇るような気持ちになった。あちらこちらのと芸術家のパトロンたちからのお呼びがかかるようになり、劇場はもとより慈善事業の寄付集めのパーティでも舞い続けた。
・道郎にニューヨークからの招請状が舞い込んできた。道郎から相談を受けたイエールは、三年ほどアメリカで修行してこい、と助言した。
・道郎は映画にも出演依頼があり、さらに多忙を極める。
・道郎は、女性関係については、来るもの拒まず、といった甘い面が認められた。それでなにも不自由することもなく、プレイボーイ的な生活を続けていたのだった。ところが、この頃より、特別一人の女性とだけ付き合うようになる。道郎の舞踊学校に在籍していた女性とで、ヘイゼル・ライトといった。
ヘイゼル・ライトの両親の許へ行ったが、両親は許さなかった。翌年の初めのころに懐妊する事態にまで進んだ。そこでヘイゼル・ライトが周囲の反対を押し切る形で二人は結婚したのである。
・20年ぶりに帰国した道郎を母喜美栄や兄弟たちが出迎えた。19歳で出国した道郎はまもなく38歳になろうとしていた。一行は、4月13日の帝国ホテルの試演会に臨んだ。この試演のあと、東京朝日講堂(3日間)、帝国ホテル演芸場、大阪朝日会館での各公演を催している。この公演中にに、真木竜子は、「伊藤道郎」の名前を初めて耳にした、と思い出す。
これら一連の公園は、現代舞踊の歴史の浅かった日本にしては、関心を呼び、客の入りも十分すぎるほどであったのに、採算面では赤字を計上している。もちろんそれは、道郎たちには知らされていない。その原因は、一行の日本見物を兼ねた滞在費用や、金銭感覚にうとい道郎が、夫人の目を盗んで京都や東京で芸者遊びにに精出したとあっては、いくら費用があっても足りなかった。一行の勧進元を引き受けた喜朔は、大損失だったが、黒字として、一行にいくばくかの収益金を渡したので、負債を一人でしょいこんでしまったのだ。そんな弟の心労を解らないまま、久々の日本の良い面ばかりを堪能して、道郎をはじめとした一行は岐路に就く。
・一路ハワイを目指す1749トンの秩父丸のデッキから華やいだ声が響き渡ってくる。船中には、日本人や日系人が乗り合わせている。
早川雪州、竹久夢二、佐野硯、翁久充
・道郎が、世界の各地で芸術的成功をおさめたのは、自分の個性を前面に押し出して、妥協を許さなかったからだ。ところが道郎は、家庭においても自己の信念を貫き通そうとした。つまり、自分の思う通り、気ままに行動したのだった。お金を渡さない、家に居つかない、といったことが度々だったのでは、家長制下の日本人妻でも忍耐に限度がある。ましてや、自らも芸術家としてのプライドを持った、ヘイゼル・ライト夫人は、そんな道郎を咎め、激しく口論するこtも多かった。この頃、ヘイゼル・ライトの我慢と怒りは、ついに限界に達したのだった。彼女は分かれうkとおを提案し、道郎の許を離れて行った。二人の子供は、一度ヘイゼル・ライト側に引き受けてもらったものの、他の家族になじめずに、道郎の家へ帰って来た。二人の面倒は艶が見ることになり、道郎は艶と正式に再婚する。
・道郎は、日米の戦力の差は歴然としており、一部の帝国主義者たちを除いて、日本人が開戦を望んでいないことをアメリカの友人たちに訴えた。
開戦寸前まで、戦争を回避するために努力した人々として海軍系の野村喜三郎、陸軍系の岩畔豪雄や井田忠雄、外務省・アメリカ局長の寺崎太郎などがいたことは知られているが、それと同様に、あるいはそれ以上に民間人として努力した道郎がいたのである。太平洋戦争は不幸な出来事ではったが、このように国内外で非戦的な運動を展開した人々が数多くいたことを私たちは忘れてはならない。
・家族の見守るなかを拘引された道郎は、ロッキー山脈とビタールート山脈に挟まれた山あいの町、モンタナ州ミズーラの収容地に送られた。
道郎の場合、国際結婚が絡んでいただけに、4人(子ども二人、艶、道郎)がそれぞれに引き裂かれるという残酷な目に合った。戦争は、こんな面においても人間性を無視した悲劇を作り出したのである。
・第二回の捕虜交換は、人選などで一時は中止かと危ぶまれ、大幅に遅れたすえに、ようやく翌43年10月19日にポルトガル領インドのマルゴン港(ゴア)で人員を交換することになった。
道郎は、長旅と、週湯尾署生活で別人のように痩せおとろえていた。
陸.海軍の幹部連が次々にやってきては、アメリカの現状などを尋ねて帰っていく。道郎も客観的なアメリカ情報を軍部に与えた。一段落すると、彼は、自分なりの戦争参加を考える。道郎は、芸術を逸脱した範囲でそれを考えるkとおなどできなかった。
道郎は、キャンプ・リビングストーンの中で「八紘一宇」(天下を一つの家のようにすること)についてずいぶん勉強している。その精神に支えられた、芸術活動ならば、軍部のきゅお感も得られると思いいたった。加えて、年来の「太陽の劇場」を表現できる可能性も探ってみた。「太陽の劇場」の上演が、民衆の精神を高揚させ、人気を高めていくのだと説いている。そして人々を太陽の慈愛に感涙させられる、これこそ「八紘為(一)宇」だと、軍部とは異なったニュアンスの下に展開していく。
道郎は12月に入ると、大東亜舞台研究所の名称でのレッスンを開始する。1クール終わった講習生の真木竜子らは引き続き、そこに参加している。
・9月に東京湾のミズリー号船上において、降伏文書の調印が終わると、GHQが置かれ、全国にGIたちがやってきた。
道郎についていえば、GHQは、FBIルートからロサンゼルスでの工作活動の事実をかなり正確につかんでいて、それが非戦的立場からのものであったことを確認していた。アメリカは情報量が多いこともあり、道郎のアメリカに対する貢献度も正当に評価されていた、したがって「大東亜舞台研究所」所長として立場も、共栄圏の礼賛者でなく、単なる芸術活動の一環としか見なされていないようだった。
46円の1月4日にGHQ民生局は、戦争責任者の公職追放を発表したが、もちろん、道郎の名前は含まれていない。道郎は、責任を追及されるどころか、アメリカ兵士の娯楽専用劇場「アーニー・パイル劇場」(東京宝塚劇場)の顧問兼総監督にさえ起用されたのだ。
こうして第一回公演『ファンタジー・ジャポニカ』の幕は開けられた。46年3月24西のことである。三千人のGIたちは敗戦国日本で本国でも観たことがないレビューに接して驚嘆させれた。
・道郎はロサンゼルス時代に、ミス・アメリカ大会に関係したことがあり、日本でのミス・コンテストのイベントの一部を委嘱される。そして、4月22日に、第一回のミス日本コンテストが開かれる。この時、ミス日本に選ばれたのは、山本富士子だった。
・すでに人生の全てを超越した境涯に至っていた道郎にふさわしい仕事が委嘱された。1964年に行われる東京オリンピックの開・閉会式の総演出の仕事だった。友人の武田恒徳(JOC元委員長で明治天皇の孫)の推薦だろう。(オリンピックの前に逝去)
感想;
昭和の激動期に舞踊でドイツで学び、英国、米国、日本で公演し続け、まさに西洋舞踊の先端を走って来られたのでしょう。
未知に挑戦し続けられた一生だったようです。
先のことを不安がるよりも、今できることをすることで未来を切り開いて来られたように思いました。