・中国の史書によると、二世紀には倭国王帥升らが後漢の都、落陽へ朝貢している(107年)。三世紀には邪馬台国の女王卑弥呼が朝貢使を後漢のあとに興った魏の都(同じく洛陽)に送り(239年)、翌年ん位冊封使が「新魏倭王」の詔をもたらしている。
・日本がどうしても輸入しなければならないものがふたつあった。ひとつは中国生糸であり、他のひとつは朝鮮人参であった。これらを輸入するために銀と換えることは、江戸幕府も認めていた。
・日本の人参栽培は享保14年(1729年)、日光における大出の朝鮮産人参植付けの成功に始まり、植村の協力によって成功したとしてよいであろう。
・幕府が人参の種子と栽培法を一般公開したのは賢明な策であった。元文3年(1738年)、江戸本石町岡肥において「朝鮮人参種子」を初めて希望者に「下渡し」したが、この時に公開した「培養の法」はつぎのようなものであった。
地を掘ること二尺ばかり、山中の赤土と畑の黒土を等分に混ぜる。もぐらや害虫に食われぬように木板で四方を囲む。乾、湿に注意し、冬は半日ほど日を当て、夏は日に当てぬよう柿や青桐を植え、木陰を利用し、よしずで調節する。冬は落葉をかける。
・日光御神領今市で朝鮮人参の栽培に成功した幕府はその普及のために、江戸と京都で種子と栽培法を公開した。諸藩諸侯にも奨めたにちがいない。秋田、熊本、薩摩その他いくつかの藩で栽培が試みられたことが知られている。・・・
失敗に終った例の多いなかで、松江藩と会津藩では藩営事業として成功し、財政に大きな貢献をした。
・(会津藩は)京都の警備のために2,000人の藩士が動員され、一年交代で1,000人が常駐した。幕府より役料五万石、旅費三万両の貸与があったとはいえ、京都における出費は莫大なものであった。藩営人参事業の利益の蓄積がこの際大きく貢献したにちがいない。・・・
会津藩の人参栽培は藩とともに終わった。それは徳川幕府の時代の終わりでもあった。
・野菜の「人参」(以下「にんじん」)は農作物として改良が重ねられ種類も多いが、植物としての分類はせり科に属する。「人参」の基原植物はウコギ科であるから「にんじん」とは全く別の植物である。
感想;
朝鮮人参(オタネニンジン)と野菜の人参は別物で科も違っていたと知りました。
吉宗が国産を検討したようです。
そしてほぼ、国産品を使うようになりましたが、その後韓国、中国から安いものが入り、国産は0.1%まで落ちているようです。
韓国、中国も栽培を始めたのかもしれません。日本が栽培を始めたことは自然に育っているものを採取していたようです。
国内栽培400年の歴史。もっとも有名な薬用作物「高麗人参」。https://asadori.net/2019/11/korai01-s2/ あさドリ
高麗人参は糖尿病、動脈硬化などに効能がある他、滋養強壮作用、疲労回復,病後の回復を早める働きなどもあるとされ、古くから漢方薬として用いられてきました。
高麗人参の原産地は中国から朝鮮半島にかけてとされ、古くから漢方薬として用いられてきました。豊臣秀吉の朝鮮出兵は高麗人参の入手が目的だったとの説もあります。江戸時代八代将軍徳川吉宗の時代より国内各地での栽培が試みられ、幕府が栽培を奨励したことから、和名は「御種(オタネ)人参」と呼ばれています。
現在の主な産地は、ここ信州佐久(長野県東信地方)、および会津(福島県会津若松附近)、出雲(島根県大根島)の3カ所程度で栽培されている貴重な農産品です。もちろん望月地域の栽培地の標高は国内随一です。
高麗人参は糖尿病、動脈硬化などに効能がある他、滋養強壮作用、疲労回復,病後の回復を早める働きなどもあるとされ、古くから漢方薬として用いられてきました。
高麗人参の原産地は中国から朝鮮半島にかけてとされ、古くから漢方薬として用いられてきました。豊臣秀吉の朝鮮出兵は高麗人参の入手が目的だったとの説もあります。江戸時代八代将軍徳川吉宗の時代より国内各地での栽培が試みられ、幕府が栽培を奨励したことから、和名は「御種(オタネ)人参」と呼ばれています。
現在の主な産地は、ここ信州佐久(長野県東信地方)、および会津(福島県会津若松附近)、出雲(島根県大根島)の3カ所程度で栽培されている貴重な農産品です。もちろん望月地域の栽培地の標高は国内随一です。
高麗人参生産の現状
かつて高麗人参はもっとも有名な薬用作物で、重要な生薬原料のひとつでした。1960年頃までは100%国産品が使用されていましたが、その後韓国・中国からの輸入品が増え、令和3年時点の国内で使用される量の内、国産は0.1%以下といわれています。
また、「高麗人参は、昔は健康食品の中でもっとも人気が高かったが、最近は、ビタミン剤や乳酸菌など、より手軽に飲むことができる健康食品が増えたため、高麗人参の需要量が減少している。」との見方もあります。そんな状況の中で現在の国内生産量は1970年代と比較しても1/10にまで減少しています。
当然ながら、高麗人参の生産量と比例し生産者の収入も減少し、高齢化が進んでいます。ただでさえ後継者不足により廃業を選択する農家さんが多い中、2011年3月11日起こった東日本大震災により、会津地方産の高麗人参は風評被害により多大な影響を受けてしまいました。400年続いた良質な国産高麗人参栽培にもカウントダウンが聞こえ初めています。
かつて高麗人参はもっとも有名な薬用作物で、重要な生薬原料のひとつでした。1960年頃までは100%国産品が使用されていましたが、その後韓国・中国からの輸入品が増え、令和3年時点の国内で使用される量の内、国産は0.1%以下といわれています。
また、「高麗人参は、昔は健康食品の中でもっとも人気が高かったが、最近は、ビタミン剤や乳酸菌など、より手軽に飲むことができる健康食品が増えたため、高麗人参の需要量が減少している。」との見方もあります。そんな状況の中で現在の国内生産量は1970年代と比較しても1/10にまで減少しています。
当然ながら、高麗人参の生産量と比例し生産者の収入も減少し、高齢化が進んでいます。ただでさえ後継者不足により廃業を選択する農家さんが多い中、2011年3月11日起こった東日本大震災により、会津地方産の高麗人参は風評被害により多大な影響を受けてしまいました。400年続いた良質な国産高麗人参栽培にもカウントダウンが聞こえ初めています。