・14歳の初夏、正一君は自宅の風呂場で、背中を流してもらいながら、父親から「20歳ぐらいまでしかいきられない」事実を知らされた。
・正一が、徳島から帰って来たのは、11歳2か月の時だった。-歩けなくなった足にばねのついた補装具をつけて、もう一度歩けるように訓練を受け、徳島大学附属病院を退院したのは、半年ぶりの昭和41(1965)年2月の初めのことだった。
・「うん、がんばる・・・。でもがんばるって、どうしたらいいの・・・?」
・「そうか、わかった。冬があるから春がくるんだね。それが神さまの愛だね。ぼく信じるよ!」
・はたの者がいかに筋ジスという病気の真相を本人に知らせまいとしても、それは無理な注文で、子供たちは、常に自分を悩ませているその原因を、知りたいと考え願っているのだ。
1)この病気は治るのか治らないのか
2)不治ならば何歳まで生きられるのか
3)短い命ならば、筋ジスの人生にどんな生きる意味があるのか
・たとえ短い命でも
生きる意味があるとすれば
それはなんだろう
動けぬ体で
一生を過ごす人生にも
生きる価値があるとすれば
それはなんだろう
もしも人間の生きる価値が
社会に役立つことで決まるなら
ぼくたちには
生きる価値も権利もない
しかし どんな人間にも差別なく
生きる資格があるのなら
それは 何によるのだろうか
・小学校1年で就学免除の扱いを受けた彼にとっての切実な願いは、一般の健康児ならばだれでもがしている、ごくあたり前の学校の勉強をする事だった。
・養護学校の先生のお話はこうだった。
「今年度、教師として初めて筋ジス症児の担任となったが、クラス全体が脳性小児麻痺(略称=CP)の子供で占められている中で、筋ジスの場合には、CPと比較して決定的な相違がある。・・・それは、CPは障害が固定しているのに比して、筋ジスの場合には進行性であるということだ。CPの場合には、現在時点を出発点にして目標を設定し、勇気づけや励ましをしながら目標に到達させるという学習やリハビリテーションの効果が期待でき、上昇線もの望めるが、筋ジスの場合にはこのような教育テクニックは、まったく通用せず、下降線があっても上昇線がない。昨日までやれたことが、今日は出来なくなる。今はこれがやれているが、明日はそれがやれなくなる・・・。それならば、下降線をたどるしかない筋ジス症児には、生きる目標を与えられないのだろうか。たとえ明日それが出来なくなっても、今日一日出来るなら、それを今することに意味があると教える教育とは何か、それをやる気にさせる指導とは何か?」
・病気を知り、自分の命が短いとわかった時に、初めて残された時間の貴重さがわかり、そしてそれを、どう充実させて過ごそうかと激しく思いを持った時こそ、やれるうちは、何でもやらずにいられなくなるというのだった。
・「ぼくはね、こんな体の筋ジスの人生にも、社会的な生きる価値があるかどうかはよくわからないけど、ともかく精いっぱい生きておかないと、死ぬ時に悔いを残すと思うから、生命を完全燃焼させて生きたいと頑張っているわけ。社会的にはわからなくても、そういう生き方は、少なくともぼくにとっては人間的には価値があると考えているの。だから、そういう人間として一生懸命生きていこうとする人に出会うと、尊敬できて共鳴できて、深い心のお付き合いが出来てくると思うよ」
・『人間の看護』大段智亮(おおだんともあき)著
・ことに正一が深刻に悩みぬいたのは、女子のボランティアの存在でした。純粋な善意で来てくれる人に対して、恋愛感情があるわけでもないのに、ただ男としてだけの感情を抱いてしまう自分を、正一は絶対に許せないと絶叫します。そういう心の中を知られたら、きっと激怒されるにちがいない。そんな事になるのは死んでもいやだという不安と、相手の人格を冒涜するような思いを持ってしまう自分に、何で完全燃焼を口にする資格があるのかという、自分への罵りと。
・「正ちゃんは、自分で自分が許せないと言ったけど、じゃあ、お父さんやお母さんが許してあげるよと言ったら、自分を許せる?」
「だめだよ。ぼく自身の心の中の問題だから」
「それじゃあ、この社会の人たちが、正一さん、そんなに自分を責めないでください。だれもあなたの矛盾をとがめる人はいませんから、どうぞご安心下さいと言われたら?」
「やっぱりだめだね。短い命を完全燃焼させることだけが、納得して自分の死を受け容れさせる、人間としての価値にならわけだから、社会だって関係ないよ」
・ある時
舟の舵をとるのは僕じゃないんだ
イエス様なんだと
だが海はおだやかではなかった
風がおさまったと思えば
濃霧に悩まされる
私の信仰はあまりにも幼さすぎた
真実の信仰に目覚めた、正一は、このような詩を記している。
・「神さまは自分が善いと思うこと、正しいと信じられることならば、それをする自由をお与えくださっているわけだから、本を出していいかどうかではなく、どんな内容の本になるか考えてみる」
・昭和48年7月、石川正一著『たとえぼくに明日はなくとも』
・ただ正一には、一つだけ確信があった。それは、この本の出版が、その大きな反響を通して、何かを自分に促そうとなされる神さまのみ手の働きにちがいない、という事であった。ともかくも、こうした自覚は、正一にとっては家族や身近な知人の中で生きてきた今までの自分を、広く社会とのかかわりで見直すということ。つまり筋ジスである自分のような者であっても、その生の自己主張を胸を張ってしさえするならば、社会に対して何らかのかかわりを、主体的に持ち得る存在なのだという、自己の再発見につながったようだ。
・「でもぼくは、たとえ筋ジスではあっても、負け犬はなりたくないと思ってきました。人生の敗者、降伏者では死ねないと考えたからです。闘わない勝利者なんてないわけですから、僕は耐えることを闘いにしてきました。でも個室に入るようになって、ただ耐えて生きることの意味はなんだろうかと、疑問になってきたのです」
・フランクルが、その著『死と愛』の中で述べている態度的価値とは、松下君や正一がその生きる態度を通して、私のように運動にかかわる者の生きる姿勢を正し、何らかの行動へと駆り立てるエネルギーを誘発させる存在としての、社会倫理的価値とまったく同質のように思える。フランクルは、アウシュビッツの収容所という、明日に死を控えて生きる限界状況のもとに形成された、一般社会の価値がまったく通用しない人間社会の中で、ただ一つ通用する価値を発見し、それを態度価値と称したのである。
現代では、この人間社会を支えているものは、経済的価値であると考えられているが、態度価値は、とかく忘れがちな人間社会を支えるもう一つの価値、つまり、人と人との間柄や結びつきの質を高める倫理的効用として、人間関係の中に作用する大きな価値を意味している。
フランクルは、その倫理的効用の極致の姿を、避けがたい死の運命を受け容れざるを得ない状況の中で、なお前向きに生きる姿勢を保つことにより、周囲をはげまし、生きる勇気を与えている人の、その態度にみたのである。
・筋ジスの壁といわれる20歳という年齢は、それは平均値でなくて、あくまでも余命年数の極限を意味している。
・祈りとは、いわばキリストとの人格的な交流であり、朱に交われば赤くなる譬の通り、親しい者同士が似てくるように、その祈りが深ければ深いほど、キリストの影響を受け、その人格像に似るべくキリストに近づくことを意味する。
・神さまの台本に従うということは、成り行きまかせに生きることではない。精一杯に生きる中から、台本の全容が次第に見えてくる。
・死の受容とは諦めることではない。残り時間を大切に生きることで、より良き死を迎えようとする、新たなる生の歩みを意味する。
筋ジスの人生を、神さまから選ばれて与えられたと信じているからこそ、懸命に生きた結果を、神さまに委ねるという信仰が成立する。
・時に昭和54年(1979年)6月18日、午前7時00分。わが子・正一は、23歳7か月の生涯を閉じた-
感想;
生きるとはどういうことかを考え、教えられたように思います。
今の状況で精一杯生きることなのでしょう。
それは、この本にも引用されていたヴィクトール・フランクルが創始したロゴセラピーでは「人生が自分に問いかけて来る。その問いかけにどのような選択をするかの自由はある。それにYESといって生きていると人生の意味・価値を生みだせる」と考えます。
まさに石川正一さんはそれを実践されたように思います。
ロゴセラピーでは、「創造価値」「体験価値」「態度価値」の3つの価値を言います。身体が動けなくなり、何もできなくなっても死ぬまで「態度価値」を生みだすことはできると考えます。
石川正一さんの「態度価値」を父親はフランクルの書物から実感されたのでしょう。
ロゴセラピーでは、精神次元が、心、身体の次元の上位にいると考えます。
キリスト教の神様への祈りも大きな支えになっていたように思いました。