・愛されていないという思いは嫉妬を生みます。嫉妬心くらい辛い感情はありません。毒素を発し、肉体まで腐らせてしまいます。困ったことに愛の感情が強ければ強いほど、嫉妬心も大きくなるということです。
・仏教では、愛を渇愛の他に、もう一つの愛を考えます。それは「慈愛」と呼ばれる愛で、地合いはあげっぱなしの愛です。渇愛のようにお返しを要求しません。
・人間の渇愛の中にも、愛が最高潮に燃焼した時は、人はお返しなどほしがっていないし、相手がそれを求めるならば死んでも悔いないという気持ちになれることがあります。その瞬間は、愛によって、その人が神や仏の境地に高められているのです。
その至福の一瞬を味わうか味わないかで、その人の人生観は変わると思います。
たとい、そんな崇高な愛の境地がまたたく間にすぎて消えてしまっても、やはり一生に一度でも一瞬でも、そんな愛を持つことが出来れば生きた甲斐があるというものでしょう。
愛されようとするから苦しいのです。
愛そうと積極的に心を持てば苦しみは少ないのです。多く愛することによって多く苦しむかもしれません。けれども愛の苦しみを多く味わった人ほど、人間の優しさを持つことが出来ます。自分が苦しまないで、人の苦しみがわかるでしょうか。
人の苦しみや不幸にやさしい気持ちを持てる時、それこそ、あなたに慈悲が宿った時です。渇愛の苦しみの果てに、慈悲の光が輝くのです。
・愛のかたみは、二つの肉の結合の証拠の子供だけでなく、互いに切りつけあった深い心の傷あとである場合もある。
永遠に残るものは、肉ではなく、精神の遺産だけなのである。
・1904年3月12日、「社会主義婦人講演会第五回」、村井知至が、「日本婦人に関する二大迷想」という題で講演した中に、
「夫人に関する二大迷想の第一は『女子は必ず男子に嫁すべきものという考え』、その第二は『女子は必ず男子に従うべきもの』という考えだ」・・・
今から70年前にも、結婚に対してこんなはっきりした意見があったのに、今尚この二大迷想が全く拭い去られているとはいえないのだから、人間の智慧の進歩なんて大したことではないと思う。
・深情けの女はすべてやさしい心情の持主の筈である。
・結局のところ、男女の愛はどんな体裁のいいことをいっても自己愛でないかと私は思う。
・明治に入って、福田英子が先ず立ち上がり、それまでの男性中心の社会の中で圧迫されていた女権を主張しはじめたのが、フェミニズムが根づこうとした最初の芽ばえで、菅野須賀子が刑死と引きかえに、社会主義革命の中にその発展を夢みたものを、平塚らいてうが青鞜社運動でロマンティシズムの系譜の一つのイデオロギーとして昇華させた。伊藤野枝がそれを受けつぎ、野枝はアナキズムにフェミニズムを結びつけ、身を以て、短い生涯にそれを自分の生き方で完成してみせた。
これ等数人の我が国の女性解放運動の先駆者たちは、外国の女性解放運動の闘士たちと比較してみて、決してひけをとる人々ではない。
彼女たちが受けた教育や、彼女たちが置かれていた因習的な社会環境のことを考えたら、よくもあれだけの発言をし、あれだけの行動と実践が出来たものだと、深い敬意を感じるしかない。
・妊娠したらいてうは全く予測しなかった自分の新しい心情を発見した。それは母になりたいという自然の母性本能であり、愛の完成としての子供を得たいという女の本能であった。・・・
エレン・ケイと結びついたらいてうが博史との愛にとじこもり、やがてすっかり家庭的幸福の中に埋没していったのに対し、野枝は、二人目の子供産んで身軽になると、大杉栄との恋にはしり、子供と夫を捨ててしまった。つれて出た次男も、早く里子に手放し、それっきり、自分の手許に引きとっていない。二人目の子供を産んだ時、彼女はまだ二十歳の若さだった。・・・
関東大震災の日に、野枝は大杉と共に甘粕大尉に虐殺され二十八年の短い生涯を閉じた。
・私は野枝のようにたくさんは産まなかったけれど、一人子供を産んでいる。もう二十年も逢ったことがない。人はよく、逢いたいだろうといい、よく捨ててこられたという。私はそんな時、いつでも返答に困って、曖昧に笑っている。よく捨てて来たという件に関しては野枝と同じ心境だともいえるが、それは後でこじつけたもので、要するに、その時、新しい恋に走る盲目の情熱だけで、前後の見境がなかっただけだ。
・不思議なもので、恋愛のはじめというものは、互いがどんなにつまらない相手でも、一種の生命力の昴揚がおこり、その人間として最上のコンディションが肉体にも精神的にもひきだされるもののようである。相手に生きている実感を与えあい、生きる歓びを与えあう時、その人間が育たないのは嘘で、もし、男でも、女でも、相手から育てられる時期があるとすれば、恋のはじめから、恋の成長期にかけてであろう。
・先生はいつも私(秘書 藤尾まなほ)にこう言った。
「自分の好きなことをしなさい。『情熱』をもって生きること。誰にも遠慮する必要はないよ」と。
自由であるべきだ、身も心も、誰のものでもなく自分のものだと先生は教えてくれた。先生が自分の人生を生きることができたのは、荊を恐れず自ら荊の道に突き進み、切り拓いたからだと思う。決して楽なものではないとわかっていても、敢えてその道を選んだのだ。・・・
「正直いって、私は、彼女たちの生涯を書くことによって、はじめて彼女たちの思想を自分の中に根づけ、定着させたといえる」
半世紀以上も前に、今の日本を予言していたかのような寂聴先生のエッセイ。今の私たちが、こんなにも自由に恋愛も仕事もできるようになったのは、時代に左右されることなく、自分の生き方をまっとうした女性たちに続き、寂聴先生たちが道を拓いてくれたおかげだということを、深く心に刻みたい。
感想;
瀬戸内寂聴さんは、多くの女性作家の生涯を辿られたようです。
よく勉強されたのでしょう。瀬戸内寂聴訳『源氏物語』を読みました。
明治の女性作家の伝記も多く書かれています。
今の自由はこれまで人生をかけて闘って来られた人々のお蔭だということをあらためて思いました。
瀬戸内寂聴さんが娘を置いて男性と駆け落ちされたのは知っていましたが、その時の心情も知りました。
瀬戸内寂聴さんは「情熱」の人だったのです。
瀬戸内寂聴さんは娘が4~5歳の時に男性と駆け落ちされて、娘さんとは縁がなかったそうです。
その後、和解をされたとのネットの記事を見つけました。
瀬戸内寂聴さんの遺産は、瀬戸内寂聴さんさんの活動をこれからも行うための資金として、それと娘さんにも遺されたと思います。
瀬戸内寂聴さんは天台宗に帰依され、仏門に入られました。
そして多くの人にご自分の経験と仏教の教えから多くの人の悩みに応えて来られました。
瀬戸内寂聴さんがよく言われた言葉が、「亡己利他(もうこりた)」です。
究極の幸せは、己を亡くし他を利することだと。