・彼はひたすら槍術に励んだ。後年山形は回想して、毎日早暁に家の傍のいちじくの大木にむかって槍の練習を試み、これをついに突き枯らしたと述べている。
安政5年(1858年)7月長州藩は6名の者を京都へ派遣して天下の形勢を視察させることにしたが、この中には山県も加えられた。これらの中で4名は松下村塾のひとびとで、伊藤利輔(博文)も含まれていた。・・・それにしても、彼がこの一行に加えられたことは、彼が当時すでに烈しい尊攘の思想を抱いていたことを示すものである。入洛した山県はその滞在中に諸藩の尊攘派のひとびとと接触したほか、松陰門下の久坂玄瑞と深く相識すにいたった。そして、久坂の勧めで帰藩後ついに松下村塾に入門した。松陰は山県の入塾後いくばくもなくして下獄し、ついで江戸に護送の上処刑された。山形と松陰との接触はこうしてきわめて短期間にとどまったが、松陰が彼におよぼした影響は大きいものがあった。
・山形は後年「明治の元勲」とよばれるようになったが、明治維新にあたって彼の演じた役割はさほど大きいということはできない。彼は維新を生みだす巨大な歴史の流れに動く代表的な、主役的なひとびとには属せず、この過程において登場してくる多くのワキ役の一人にとどまったといってよいであろう。戊辰戦争が終わった後、新政府の行った論功行賞において長州藩の関係ではたとえば木戸孝允が1800石、大村益次郎が1500石の賞典禄を与えられたのに対して、山形が同碌600石を給せられたことも、実は右の事実を象徴するものといってよい。。
・山形はその後木戸孝允、その他の先輩に対して外遊の斡旋方を熱心に依頼したが、ついて明治2年3月に藩主毛利敬親からヨーロッパ視察の命をうけ、薩摩藩から同様の命令をうけた西郷従道とともに6月から長崎から待望の渡欧の途についた。
・帰国後、山県は明治天皇に謁して巡欧の報告を奏上したが、このとき初めて彼は天皇に接したのである。山県は、ついに兵部少輔に任ぜられた。
・山県が陸軍においてこのように次第に地位を高めながら、陸軍の、又ひろく軍備の強化、拡充に力を注いていた間に、伊藤(博文)は維新後政府の世界においてその頭角を次第に現して行った。・・・
しかし、ここで注目すべきことは、山県は政治の世界におけるこの立ち遅れを補う二つの利点をもっていた。その第一は、陸軍の代表者として背後に陸軍を擁するにいたったということである。第二は、彼が自己を中心に派閥網をつくり上げて行くことである。この後の点についてであるが、山県は性格においてきわめて慎重かつ神経質であり、人に接して一般的には寡黙であり、態度において謹厳であり、容易にうちとけようとしなかった。
・「山県は初めは容易に人を信用せず、一たび信用されると思ひ切つて信用する性格方だと感じた」(側近に仕えた入江貫一の回想)
・伊藤博文は自己の能力と手腕とについてとかく満々たる自信をもち、それを誇り、又それを衒う風があった。このような彼の眼には、しばしば他人は愚かしくさえみえた。彼もまた人材の抜擢を試みたが、それらのものを用いて当面の必要を弁じたあとは、それらのひとびとをとかく顧みなかった。そこで、彼が往々情にうすいとと評された。このような伊藤の周囲には、山県の場合にみられるような強固な大きな派閥的結合は生まれ得なかった。山県が、こうして、陸軍をその背後にもち、また派閥網の育成をはかったことは、現実政治の上において山県の大きな政治的資産となり、それは、伊藤におくれて政治の舞台に登場したことを、優に償うものになった。
・増租案を成立させるためには、山県がこのように説得につとめただけではない。山県内閣は星と共謀して、利権問題を用いて増租反対議員の買収も行い、反対派切崩しを試みたのであった。こうして、結局地租増徴法案は衆議院において37票の差をもって可決され、ついで貴族院を通貨して成立をみた。・・・山県が金銭をもって議会操縦を試みたことは、当時の世上でも物議を招いたところであった。
・第23議会に郡制廃止案を再提出した際、原敬は山県を訪ねてその趣旨を説明したのであったが、その際に山県は原の言葉を黙って聞き、何ら賛否を明言しなかった。しかも、この法案がいよいよ上程されると、山県および山県系のひとびとは以上のように烈しい反対を試み、そのことは当時原に甚だしく意外な感じを与えた。原は議会閉会後その点についての不満を桂に漏らしたが、そのとき、桂は山県に対する原の観方を余りに表面的であると評し、伊藤などと違い、山県は表面は反対せず、しかも、裏できわめて執拗に反対する性格の持主であると説明した。
・この選挙法改定案は枢密院特別委員会で審議されたが、同委員会はこの法案を一旦は否決しようとした。しかし、そのときに、委員の一人である伊東巳代治は発言して、山県議長もかつて大選挙区制に反対であった旨を述べると、委員会はたちまち採決を延期し、山県の意向を尋ねることにした。この挿話も、山県が枢密院を自己の系統のもので固め、枢密院は彼の傀儡的存在となりつつあったことを物語るものにほかならない。
・山県が尊崇したのは、理念化された天皇にほかならない。従って、実在の天皇が彼の抱く理念像から離れている場合、彼の態度は恭順でない。
・崩御の十数日前明治天皇は枢密院の会議に臨席されたが、その際天皇は平素とは違って疑似の途中で仮眠された。このとき、議長席にあった山県はそれに気づくと、その軍刀の先で床を叩き、その音で天皇は目覚め、態度を正された。入江は天皇の仮眠は天皇の病がすでに進んでいた結果であったことを後日に知ったと述べているが、この小さな事件も、山県の天皇崇拝の以上のような在り方を示唆する門徒いってよいであろう。
・山県は権力をあくまでも愛した。彼は彼の系統のものを操って、自己の勢力を維持し強化し拡大するためには正に老いを忘れていたといってよい。
・明治天皇が少なくtもその晩年にはそうであったように、大正天皇もまた山県に好意をもたれなかった。山県もそのことを察知しており、大正五年頃高橋是清にたいして、天皇は皇太子の頃から自分を好まれず、天皇となられた今日でも嫌がっておられると洩らしている。
感想;
司馬遼太郎の『翔ぶが如く』は大久保利通をメインに明治維新の多くの登場人物を描いていますが、そこでの山県有朋の評価は手厳しいです。
「能力がないけど、唯一長生きしたので明治政府の元老まで上り詰めた」
長州藩では木戸孝允は政治に興味を失って表舞台から遠ざかりました。
高杉晋作は病気で若くして亡くなり、大村益次郎は暗殺されました。
また松下村塾一番の秀才といわれた久坂玄瑞はハマグリ御門の変で亡くなりました。
高杉晋作が創設した奇兵隊で軍監となり表舞台に出る機会を得ました。
軍艦として騎兵隊の仲間の面倒もよくみたようです。
高杉晋作が立ち上がったとき、数人だけで騎兵隊はすぐに動かなかったようです。
それは軍艦の山県有朋が洞ヶ峠を決め込み、高杉晋作が成功するかどうかをみていたとのことです。
高杉晋作に従うものが増え、これはいけると思った時、山県有朋も騎兵隊を動かしたそうです。高杉晋作が作った騎兵隊でしたが、面倒を山県有朋がみていたので、皆山形の意向で動いたとのことです。
薩摩藩では、西郷隆盛が西南の役で没し、大久保利通は暗殺されました。
伊藤博文は長州藩でしたが木戸孝允など有力者がいなくなり、大久保利通に近づいて出世していきました。
でもその伊藤博文も暗殺されました。
脇役が表舞台の頂点に上り詰めたのです。
山県派を作り、貴族院をそのメンバーで占め、衆議院から上程された議案も、気に入らなければ否決しました。
また組閣があっても気に入らなければ陸軍から大臣を送らないことで組閣を阻止したり、自分の意向に背く内閣を解散させたりしたようです。
国をどうしたいかよりも、権力にしがみつく方に興味があったようです。
司馬遼太郎氏の評価もなるほどと思いました。
それにしても今の自民党の悪しき伝統や習慣は山県有朋が始めたのではと思うようなことがいくつかありました。
国民のためというより、自分のため、自分の都合がよい国にするために動いていたように思います。
天皇崇拝も自分が理想とする天皇を崇拝するのであって、現実の天皇崇拝ではなかったとのことでした。
それにしても、久坂玄瑞、大村益次郎、大久保利通、西郷隆盛が長生きしていたら明治政府もかなり違っていたでしょう。