「ホンマでっかTV」などにも出演されている生物学者の池田清彦さん。
池田先生の著書「38億年 生物進化の旅」(新潮文庫)
カンブリア大爆発、恐竜の進化と、鳥の起源など、
やや専門的ではありますが、240ページで生物の進化の過程がわかります。
「他人と深く関わらずに生きるには」(新潮文庫)
その内容は──
・他人を当てにしないで生きる
・退屈とは人生最大の楽しみである
・自力で生きて野垂れ死のう など
名著です。
…………………………………………………………
さて池田先生。
Xで「国家」についてこんなことをつぶやいていた。
『国家などは実在しません。
実在するのは今現実に生きている人々です。
個人を超える崇高なものがあるという思想は全て幻想です。
国家も神も全て幻想です。
幻想は人々を幸福にする装置として機能している時は役に立ちますが、
個人を超える存在だと錯認した途端に、個人を抑圧する装置として機能し始めます。
タチが悪いことに、錯認している本人たちは、国家という幻想を盾に、逆らう人々を抑圧する快感に
浸っているだけなのです。
国家も神も概念です。
概念は実在しないのです。
実在するのは現象だけです。人間は概念ですが、個々の人は実在です』
完全に同感です。
たとえば、かつて「大日本帝国」という国家があったが、敗戦を機に「日本国」になった。
江戸時代までは「国家」なんて意識はまったくなかった。
21世紀のわれわれも「日本」を意識するのはオリンピックの時くらいで、
普段はほとんど忘れている。
つまり国家とは幻想であり、システムなのだ。
人間が集団生活を営むために作ったシステムであり、ルールに過ぎない。
敢えて言えば、「同じ言語」「同じ文化」を共有している集団と言えるかもしれないが、
別に国家でなくていい。
西洋人が来るまでのインディアンはインディアンでしかなかった。
このことは宗教で考えてみると、わかりやすい。
キリスト教徒は「聖書」に書かれた内容を信じているに過ぎない。
キリスト教徒でない者から見たら、何それ? ウソっぽい、となってしまう。
つまり幻想なのだ。
池田清彦さんはさらにこう語る。
幻想は人々を幸福にする装置として機能している時は役に立ちますが、
個人を超える存在だと錯認した途端に、個人を抑圧する装置として機能し始めます。
人は集団生活を営む上で便利だから「国家」というシステムを作った。
だが、「個人より国家が大切だ」「国家を守るために戦場へ行け」になると、
国家はたちまち「個人を抑圧する装置」になる。
宗教は信じていると幸福だから信仰しているが、
「異教徒と戦え」「その行為は悪魔の行為だ」になると、たちまち「個人を抑圧する装置」になる。
最近、日本では「国家」という抑圧が強くなっている気がする。
政治家は声高々に「国家」という言葉を口にする。
でも、われわれにとって大切なのは個人の生活。普通の生活。
国家が「個人を抑圧する装置」になって来た時は異を唱えなければならない。
主役はあくまでも「個人」だ。
※関連動画
「イマジン」ジョン・レノン(YouTube)和訳あり
池田先生の著書「38億年 生物進化の旅」(新潮文庫)
カンブリア大爆発、恐竜の進化と、鳥の起源など、
やや専門的ではありますが、240ページで生物の進化の過程がわかります。
「他人と深く関わらずに生きるには」(新潮文庫)
その内容は──
・他人を当てにしないで生きる
・退屈とは人生最大の楽しみである
・自力で生きて野垂れ死のう など
名著です。
…………………………………………………………
さて池田先生。
Xで「国家」についてこんなことをつぶやいていた。
『国家などは実在しません。
実在するのは今現実に生きている人々です。
個人を超える崇高なものがあるという思想は全て幻想です。
国家も神も全て幻想です。
幻想は人々を幸福にする装置として機能している時は役に立ちますが、
個人を超える存在だと錯認した途端に、個人を抑圧する装置として機能し始めます。
タチが悪いことに、錯認している本人たちは、国家という幻想を盾に、逆らう人々を抑圧する快感に
浸っているだけなのです。
国家も神も概念です。
概念は実在しないのです。
実在するのは現象だけです。人間は概念ですが、個々の人は実在です』
完全に同感です。
たとえば、かつて「大日本帝国」という国家があったが、敗戦を機に「日本国」になった。
江戸時代までは「国家」なんて意識はまったくなかった。
21世紀のわれわれも「日本」を意識するのはオリンピックの時くらいで、
普段はほとんど忘れている。
つまり国家とは幻想であり、システムなのだ。
人間が集団生活を営むために作ったシステムであり、ルールに過ぎない。
敢えて言えば、「同じ言語」「同じ文化」を共有している集団と言えるかもしれないが、
別に国家でなくていい。
西洋人が来るまでのインディアンはインディアンでしかなかった。
このことは宗教で考えてみると、わかりやすい。
キリスト教徒は「聖書」に書かれた内容を信じているに過ぎない。
キリスト教徒でない者から見たら、何それ? ウソっぽい、となってしまう。
つまり幻想なのだ。
池田清彦さんはさらにこう語る。
幻想は人々を幸福にする装置として機能している時は役に立ちますが、
個人を超える存在だと錯認した途端に、個人を抑圧する装置として機能し始めます。
人は集団生活を営む上で便利だから「国家」というシステムを作った。
だが、「個人より国家が大切だ」「国家を守るために戦場へ行け」になると、
国家はたちまち「個人を抑圧する装置」になる。
宗教は信じていると幸福だから信仰しているが、
「異教徒と戦え」「その行為は悪魔の行為だ」になると、たちまち「個人を抑圧する装置」になる。
最近、日本では「国家」という抑圧が強くなっている気がする。
政治家は声高々に「国家」という言葉を口にする。
でも、われわれにとって大切なのは個人の生活。普通の生活。
国家が「個人を抑圧する装置」になって来た時は異を唱えなければならない。
主役はあくまでも「個人」だ。
※関連動画
「イマジン」ジョン・レノン(YouTube)和訳あり
法人に関する議論が、法律学者の間では昔から存在します。
会社などの法人は、個人(自然人)が集まって結成されたもので、自然人ではありませんが、法人の名前でものやサービスを売買したり契約を結んだりできます。ワンマン社長の会社だと、社長の名前が大事だったりもしますが、大きな会社になると、社長個人の名前より法人の名前の方が信用されるようなこともあるわけです。
骨も内臓もない法人ですが、集団の力によって個人よりも大きな仕事ができるわけです。となると、法人の実態とはいったい何なのかということになるわけですが、法律家の説だと「法人は幻想」的な考え方は主流ではありません。
そういった議論が過去にあることを知っていると「国家は幻想」という考え方は、既視感があります。
国家も法人も、それ自体手で触れることはできませんが、幻想というほど不確かではないと思います。というより、幻想的な存在に税金を取られていると思うと、腹立ちますから(笑)。
法人実在説とか、法人擬制説といった言葉が、キーワードです。
国家に関してもう少し考えると、ここ最近いわれるようになっている「ネイション」「ナショナリズム」というキーワードが、意外に有用です。
このネイションの概念を使うと、多民族国家とか、共産主義国家とか、既存の概念に当てはめて国家や制度を解釈する考え方を見直すきっかけになりそうです。
たとえば日本人の多くは、日本国家は日本民族によって形成されている単一民族国家と信じているわけで、日本民族と日本国を混同しがちですが、それが日本という「ネイション」の姿でしょう。
一方、中国やロシアの場合は、多民族国家です。中国やロシアの国民で、民族と国家をイコールと考える人はあまりいないでしょう。中国人ロシア人といった多数派の民族が存在して、そのほかにも少数民族もいて、多数民族が支配統治の中枢を担っているわけで、そういった体制が、中露の「ネイション」ですね。
ところが、中国やロシアの少数民族は人数も多く存在感もあるため、それら少数民族を支配するのにやはり力に頼るようなところはあって、統治のスタイルとしては抑圧的専制的になりがちなわけですね。
アメリカの場合は、ネイティブアメリカンを除けば、構成員はみな移民かその子孫というシステムです。移民という行為のフィルターにかかって構成員が初期化されるため、体制を支配する多数派民族が建前上は存在しないわけです。そのために「誰にでもチャンスはある」ということになり、アメリカンドリームという言葉も生まれます。ただ、長年にわたり、社会の上層部を牛耳るのはプロテスタントの白人という暗黙の了解があり、その標準から外れるほど生きづらかったりしたわけですが、最近はこのプロテスタントの白人の人口が少なくなっているわけで、変質しつつある最近の姿も含めて、それがアメリカの「ネイション」の姿なんでしょう。
さて、日本は単一民族国家と言われていますが、細かく見ていくと地域のバリエーションがかなり豊かで、中央から離れた周縁部に行けば行くほど、文化的に「日本らしくない」感じだったりするわけです。そのためか、日本の愛国者と言われる人たちは、いわゆる「日本文化らしさ」の標準から外れている沖縄県民やアイヌをけなしたり否定したりしたがるわけですね。
ところが、鹿児島も「日本酒をほとんど飲まず焼酎ばかり」というかなり異質な文化圏ですが、明治維新では、この地域の出身者が中央政府の要職を占めるようになったために、沖縄ほどには異端的な扱いは受けていないわけで、こういった姿も、また日本のネイションの特徴でしょう。
ネイションに関しては、以下の本が手に入りやすいです。ご参考までに
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000210749
ナショナリズム入門
まあ、わたしも立ち読み程度で、キチンと読んでませんが。
いつもありがとうございます。
ブログ本文でも書きましたが、「国家」はシステムです。
集団生活を営む上で便利だから、「国家」という形態を取っているに過ぎません。
「会社・法人」もシステムです。
集団で役割分担をした方が大きな仕事や利益をあげられるので「会社・法人」という形態を取っているに過ぎません。
つまり「国家」も「会社」もシステムであり、幻想です。
たとえば、「会社」の方が理解しやすいですが、会社は倒産したらなくなってしまいます。
つまり「実在」ではありません。
かりそめに存在しているだけです。
確かに「幻想」という言葉は抽象的なので「かりそめの存在」と言い換えた方がいいかもしれませんね。
…………………………………
で、以上が哲学論議。
で、以下が現実論議。
現実に生きる僕たちにとって大切なのは「国家」や「会社」が個人を抑圧するようになって来たらNOと言わなければならないということです。
会社で理不尽なことを要求されて精神的に病んだり、過労死したり、自死したりするのは愚かなことで、そうなる前に会社なんか捨ててしまえということです。
同じことは「国家」にも言えます。
国家が理不尽な要求して来た時は、どうしてかりそめのシステムである国家に従わなくてはならないんだ? と考えた方がいいということです。
たとえば今の日本という国家は「自民党」「経団連」「アメリカ」などに都合のいいシステムです。
彼らのために僕は戦場に行って死ぬ気になれません。
LGBTの結婚や夫婦別姓を望む人にとって、今の日本は「抑圧装置」でしかなく、僕は彼らの思いを理解し共感したいと考えます。
…………………………………………
『ナショナリズム入門』も国家の幻想性を語っていますよね。
本に書かれているとおり、たとえば国家の構成要素とされる「民族」はロシア、中国、アメリカなどの多民族国家では意味を持ちません。
あるいは「領土」。
たとえばイスラエルの領土は人為的に定められたもの。
すなわち幻想です。
実在するのは土地だけです。
>著者は「ナショナリズムとは、『ネイション』への肯定的なこだわり」であると定義します。
「肯定的なこだわり」
これが重要ですよね。
ネイションに否定的にこだわると、排外主義や「日本スゴイ!」「他国は劣っている!」という悪いナショナリズムに行き着きます。
日本文化もすごいけど、中国文化、韓国文化を始め、世界のあらゆる文化がすごくて面白い。
こういうナショナリズムを持てるといいですね。