ひぐらしの なきつるなへに ひはくれぬ とおもふはやまの かげにぞありける
ひぐらしの 鳴きつるなへに 日は暮れぬ と思ふは山の 陰にぞありける
よみ人知らず
ひぐらしが鳴いたとともにその名の通り日が暮れたと思ったのは、実は山の陰だった。
「なへ」は「~するとともに」「~するにつれて」の意。第四句冒頭の「と」は、第三句の最後と考えた方が自然なようにも思えますが、第四句とされているようです。意味の上からなのか、あるいは写本の分かち書きがそうなっているということなのでしょうか。
ひぐらしの なきつるなへに ひはくれぬ とおもふはやまの かげにぞありける
ひぐらしの 鳴きつるなへに 日は暮れぬ と思ふは山の 陰にぞありける
よみ人知らず
ひぐらしが鳴いたとともにその名の通り日が暮れたと思ったのは、実は山の陰だった。
「なへ」は「~するとともに」「~するにつれて」の意。第四句冒頭の「と」は、第三句の最後と考えた方が自然なようにも思えますが、第四句とされているようです。意味の上からなのか、あるいは写本の分かち書きがそうなっているということなのでしょうか。
もみぢばの ちりてつもれる わがやどに たれをまつむし ここらなくらむ
もみぢ葉の 散りてつもれる わが宿に 誰をまつ虫 ここら鳴くらむ
よみ人知らず
紅葉の葉が散り積もっている私の家の庭で、誰を待つまつ虫がこれほど鳴いているのだろうか。
まつ虫を詠んだ歌の最後です。「ここら」は漢字で書けば「幾許」で数が多いことや程度が著しいことを表す副詞。紅葉の葉が散り積もる庭というのは、誰もそこを訪れる者がいない場所を表現しており、女性の立場から、愛しい異性が通ってきてくれない寂しさを詠んだ歌です。
あきののに ひとまつむしの こゑすなり われかといきて いざとぶらはむ
秋の野に 人まつ虫の 声すなり 我かと行きて いざとぶらはむ
よみ人知らず
秋の野で、人を待つというまつ虫の声がする。私を待っているのかと、声のする方に行って、さあ訪れてみよう。
四首続く「まつ虫」を詠んだ歌の3つ目。まつ虫に例えられているのは、もちろん異性でしょう。いかにも見目麗しいさまを想像させる女性の声にひきよせられる男性の心情というところでしょうか。
あきののに みちもまどひぬ まつむしの こゑするかたに やどやからまし
秋の野に 道もまどひぬ 松虫の 声する方に 宿やからまし
よみ人知らず
秋の野で道に迷ってしまった。私を「待つ」という松虫の声のする方で宿を借りようか。
0200 で紹介した通り、「まつむし」は鈴虫のこと。「からまし」は「借らまし」で、語尾の「まし」は反実仮想を表す助動詞。「反実仮想」ですから、実際にはその方向に宿などないことがわかっていて、「それでも『待つ』虫が私を呼んでいるのだからそっちに行ってみるか」と詠んでいるのは、風流人の粋、おどけなのか、それとも陽も落ちて暗くなった秋の野で道もわからなくなり、途方に暮れた挙句のなげやりな気持ちなのでしょうか。
きみしのぶ くさにやつるる ふるさとは まつむしのねぞ かなしかりける
君しのぶ 草にやつるる ふるさとは まつ虫の音ぞ かなしかりける
よみ人知らず
あなたをしのぶという名の忍草がはびこってみすぼらしくなってしまったこの家であなたを待っていると、松虫の声を聞くのも悲しいことだ。
「しのぶ」に、愛しい人を忍ぶ思いと、その人が通ってきてくれなくなった家に生い茂る忍草の両方の意を込めています。忍草は「しだ類の一種。のきしのぶ。古い木の幹や岩石の表面、古い家の軒端などに生える。」(『学研全訳古語辞典』より)とのこと。また、「まつ」も人を「待つ」と「松虫」とを掛けていますね。なお、「まつむし」は鈴虫のことで、まつむしを詠み込んだ歌がここから四首続きます。では、今マツムシと呼ばれている虫は古代では何と言ったかというとこれが「すずむし」だそうです。どういうわけか、いつの時代かに入れ替わったのですね。 笑
ようやく200番まで来ました。まだまだ先は長いですが、よろしくお付き合いください。 m(_ _)m