光明皇后は天平宝字4年6月7日(760年7月27日)60歳で崩御されています。皇后は篤く三宝に帰依され、東大寺・国分寺・正倉院の設立に関与され「悲田院」、「施薬院」を設けられました。(続日本紀、巻十に「天平二年(七三〇)四月辛未【十七】》○辛未。始置皇后宮職施薬院。令諸国以職封并大臣家封戸庸物充価。買取草薬。毎年進之」とあります)。光明皇后については、以下のような素晴らしい伝説が残っています。「光 . . . 本文を読む
東寺百合文書/ 永享三年(1431)六月七日条「七日 幕府 東寺及ビ醍醐寺三宝院ヲシテ 晴ヲ祈ラシム」(天皇は後花園天皇。室町幕府は第六代足利義教。義教は悪将軍といわれるように恐怖政治をしていましたが、将軍になる前は青蓮院門跡として僧侶でもあったので民草の為にこういう祈祷をさせるという一面も持っていたのでしょうか) . . . 本文を読む
盲目の女が、薬師仏への祈願によって開眼した霊験。二談。
「二つの目盲ひたる女人の、薬師仏の木像に帰敬して、以て現に眼を
明くこと得し縁」(『日本霊異記』下巻第十一)」
「諾楽(なら)の京の越田の池の南の蓼原の里の中の蓼原堂(平城京の左京九条四坊にあった)に、薬師如来の木像在り。帝姫阿部の天皇(称徳天皇)のみ代に当りて、其の村に二つの目ながら盲ひたる女有りき。此れが生める一の女子、年は七歳なり . . . 本文を読む
高野春秋・「(承徳二年1098戊寅)六月七日、(蓮)待師、服を樹下に整へ西方を向て定印を結び佛號(南無三身即一阿弥陀如来、南無弘法大師遍照金剛菩薩)を唱へ、安祥として寂す。香気芬馥、結縁の人群参焉。」
蓮待は、平安後期の真言僧。高野聖の先駆。仁和寺で修学したのち,金峰山で塩穀を断つ苦行に励み,次いで高野山に入った。久しく諸国を遍歴し,晩年病んで聖地で入滅すべく再び高野山に戻る。極 . . . 本文を読む
以前こういう記事を見たことがあります。いい記事でしたので趣意を載せておきます。其の人は盲学校の教頭先生でした。「自分は校長試験に落ちて荒れくれた気持ちでいたが、仕事なので朝いつものように校門に立って登校する児童に挨拶をしていた。小春日和であったが自分の気持ちは荒んでいた。すると女子児童が登校してきて校門の前で深々と手を合わせているのを見た。『どうしたの?』ときくと盲目の児童は『お日様が照ってくださ . . . 本文を読む
今日は西田幾多郎の命日です。西田 幾多郎は 1945年(昭和20年)6月7日に75歳で鎌倉姥ケ谷の自宅で、尿毒症により死亡。北鎌倉の東慶寺に墓地があります。以前知人の墓参りに行ったとき東慶寺の知人墓地の近くにこじんまりと西田の五輪塔の墓がありびっくりしたことを覚えています。此の墓を見て改めて、西田の苦労、肉親(姉・弟・娘2人・長男)の死、父の破産、一度目の妻との離縁などを思い出し悲劇の哲学者であっ . . . 本文を読む
今日は光格天皇が庶民救済を幕府に申しいれる元になった「御所千度参り」が始まった日。以下ウキぺデア等に依ります。天明期には飢饉・浅間山の大噴火等で天明七年五月には天明の打ちこわしが始まっています。御所千度参りは、天明7年6月7日 (1787年7月21日)に発生した、京都御所を神社仏閣に見立ててその周囲を多数の人々が廻り、千度参りをして飢餓の救済を祈った事件。 この御所千度参りは、天明7年6月7日頃か . . . 本文を読む
今日弘仁三年六月七日は大師が嵯峨天皇に「狸毛の筆を奉献」された日です。
性霊集巻四の「筆を奉献する表」です。
「筆を奉献する表」「狸毛の筆四管。真書一。行書一。草書一。写書一。右伏して昨日の進止を奉わってかつ筆生坂井名清川をして造り得て奉進せしむ。空海、海西において聴き見しことかくのごとし。その中に、大小・長短・強柔・斉尖なるものは、字勢の粗細に随ってすべて取捨するのみ。毛を簡 . . . 本文を読む