弘仁四年813六月十五日、善通寺の伽藍落慶。〈多度郡屏風浦善通寺記〉 . . . 本文を読む
弘法大師和讃帰命頂礼遍照尊宝亀五年の水無月に 玉藻寄るちょう讃岐潟 屏風ヶ浦に誕生し(注1)御歳七つのその年に 衆生のために身を捨てて 五つの岳に立つ雲の立つる誓いぞ頼もしや(注2) ついにすなわち延暦の 末の年なる五月より藤原氏の賀能らと 唐船に乗り終えて 印を残す一本の松の光を世に広く 弘め給える宗旨をば 真言宗とぞ名付けたる真言宗の安心は 人皆すべて隔てなく 凡聖不二と定まれど(注3)煩悩ふ . . . 本文を読む
「横川首楞嚴院二十五三昧式 源信撰」
「右念佛三昧。往生極樂の爲め今日より始め各の命終期に至る迄、毎月十五日を以て一夜不斷に共に念佛を修し、願くは此の一夜の白業之善根を積み、將に滿月清涼之覺蘂に攀んとす。仍ち其名を注し僉議すること件の如し。
定起請
一。毎月十五日夜を以て不斷念佛を修すべき事
右六節日(令義解雑に「凡正月一日。七日。十六日。三月三日。五月五日。七月七日 . . . 本文を読む
以下宸翰英華等に依ります。
「天長印信
両部大法師阿闍梨位毘盧遮那根本最極秘傳法密印
金剛界傳法灌頂密印事
摂一切如来大阿闍梨位印
定恵の手を以て肱を屈し上に向け合掌、肩と斉し。
各戒方忍願を屈し入掌、或は坐し或は立
皆成就
真言(略)
大悲胎蔵傳法灌頂密印
阿闍梨位大印
右手を以て左掌に置き二大指堅頭相柱
真言(略)
故和尚云義明供奉は両部大阿闍梨傳法を授くと雖も此 . . . 本文を読む
六月十五日は後醍醐天皇が天長の印信を書写された日本来の『天長印信』とは、天長3年(826年)3月5日に弘法大師が高弟の真雅に授けたと伝わる印信のこと。醍醐寺座主かつ三宝院流正嫡のみが相伝できるものでした。南北朝時代に醍醐寺座主文観は報恩院流のため『天長印信』を相伝できなかったので、主君である後醍醐天皇に写しの製作を願い、醍醐寺の新たな至宝としたのが 国宝の醍醐寺蔵「後醍醐天皇宸翰天長印信(蠟牋)」 . . . 本文を読む
地蔵菩薩三国霊験記 1/14巻の4/9
四、専當法師蘇生の事、付けたり俱生神の事。(今昔物語巻十七養造地蔵仏師得活人語 第廿五及び宇治拾遺物語 三の十三 因幡国の別当地蔵造り差す事にあり)
因幡國高草郡野坂郷に古き寺あり、國隆寺と号す。因幡の前司介親が建立の寺なり。後に寺の別當、坊を去て寺に栖て佛師を請して本尊を作らしむ。爰に別當の」妻竊に他の男の為に勾引せられて跡を削り隠し了る。別當心神迷い . . . 本文を読む
大師のご生誕についての記述(高野大師御廣伝)「贈大僧正法印大和尚位。諱空海。灌頂號曰遍照金剛。平生職位大僧都傳燈大法師位。謚號弘法大師。讃岐國多度屛風浦の人也。俗性佐伯直。源出天尊なり。少時の御名は眞魚。その父は田公という。・・昔倭武命、毛人を征するに随ひ、功勲世を蓋ひ讃岐國に土地を賜ふ。因って家の子孫相次いで県令と為る。母は阿刀氏也。父母は、聖人天竺より飛来して我等の懐に入ると夢み、乃ち妊胎し、 . . . 本文を読む
不空金剛は、705(唐・中宗・神龍元)年生まれで、774(代宗・大暦9)年の6月15日に大興善寺に入滅されています。「付法の八祖」では第六祖、「伝持の八祖」では第四祖。以下、大師の「秘密曼荼羅教付法伝」と「密教辞典」をあわせて書いておきます。「北インドのバラモン出身の父と康居人の母との間に西域で生まれ、長じて長安に入り金剛智に会い門下に投じる。20歳ごろ有部律により師金剛智より具足戒を授かり、以後 . . . 本文を読む