福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

今日は文永の役で守護代宗助国以下が討ち死にした日

2021-10-05 | 先祖供養


史料綜覧 巻五 / 文永十一年1274十月五日条
「五日 蒙古都元帥忽敦(注1) 副元帥洪茶丘(注2) 左副元帥劉復亨(注3) 高麗都督使金方慶(注4)等 兵三万 艨艟九百艘率ヰテ来リ 対馬ニ寇ス 守護代宗助国(注5)等 防戦シテ之ニ死ス 助国ノ家士 急ヲ博多ニ告ゲ 大宰府之ヲ六波羅ニ報ズ」

・(注1)忽敦(こつとん)は、元の武将。文永の役で北九州に上陸したものの日本軍によって進撃を阻止され、夜に入って撤退、帰途は暴風雨のため多大の被害を蒙った。十一月に高麗へ戻り、十二月には高麗の忠烈王夫妻へ捕虜の少年少女200人を奴隷として献上、翌年一月に元へ帰還している。
・(注2)洪茶丘(こうちゃきゅう)は高麗人。文永の役で元軍の副司令官を務めて日本に攻め入るが、日本軍の激しい抵抗に遭い、撤退を余儀無くされた。弘安の役に際しては東路軍の司令官、東征都元帥として出陣したが、志賀島の戦いにおいて日本軍に大敗、討ち死に寸前まで追い詰められた。その後、1283年にクビライが第3回の日本侵攻を計画したときにも、その軍備を整える役目を果たした。

(注3)劉復亨(りゅうふくこう)。漢人。博多上陸後の百道原・姪浜の戦いにおいて負傷。元側の記録『高麗史』によれば流れ矢で負傷したという。日本側の記録『八幡愚童訓』によれば少弐景資が射落とした相手が、捕虜の証言で劉復亨と推測されている。この指揮官の負傷により陣を乱した元軍は敗走。弘安の役には不参加。
(注4)金方慶(きんほうけい)は高麗王朝の将軍。文永の役・弘安の役ともに参加。弘安の役では徹底抗戦を主張してきたが作戦の継続を断念せざるを得ず、残存兵を見捨て合浦へと逃げ帰った。
(注5)宗助国。対馬の地頭で守護少弐景資の代官。文永十一年(1274年)十月五日蒙古軍船450艘、3万人の軍勢が来襲。宗助国は、80余騎を率いて応戦したが、助国をはじめ子息の右馬次郎、養子の弥次郎、他に庄の太郎入道、肥後国の御家人田井藤三郎など全員が戦死した。家来の小太郎と兵衛次郎という2人が博多へ船を走らせ、事の顛末を知らせた。
助国主従の亡骸を埋めた場所は、現在の対馬市厳原町小茂田地内に「御首塚」「御胴塚」として現存しており、小茂田の小茂田浜神社では毎年11月12日大祭において、鎧冑姿で練り歩き、海に向かって弓を放ち島の平和を祈願する「鳴弦の儀」が行われている。
1896年(明治29年)11月2日には、対馬島民らの請願を受けて、従三位が贈位。
令和二年八月一日には小茂田浜神社境内に宗助国の巨大な騎馬像が建立されています。

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