今日は大師の「三教指帰」が書かれた日です。三教指帰序末に「時に延暦十六年臘月の一日なり」とあります。
三教指帰は、大師が24歳の延暦16年12月1日(797年12月23日)に成立、出家宣言の書とされています。
序文の「支離懸鶉(不具・貧者)をみてはすなわち因果の哀しみ休まず。目に触れて我を勧む。誰か能く風を係がん」には大師のすべてが現れているように思います。「誰か能く風を係がん」とは逆に如何に親を含めて周囲の抵抗が強かったか、そしてそれを振り切るために如何に大師が悩まれたかを強く感じ涙なしには読めません。それもこれも「支離懸鶉」を救わねばという強い思いからです。ここに「南無大師遍照金剛」とお唱えすれば救っていただけるという根拠があります。
さらに三教指帰下仮名乞児編では「無福の徒は貴賤を論ぜず、辛臭を知らず。常に蓼溷(りょうこん・たでやかわら)に沈んで已醍醐を忘れたり。このゆえに慈悲の聖帝終わりを示ししの日、丁寧に補処の儲君(弥勒菩薩)旧徳の曼殊(文殊菩薩)等に顧命して印璽を慈尊に授け、撫民を摂臣に教ゆ(衆生救済手段を弟子に教える)・・・」とあり大師の理想社会建設への決意が伝わってきます。そのうち書こうとおもっていますが大師は「弥勒の世」(理想社会)をこの世に建設されようとしたのではないかと思っています。
また朝廷に献上された『三教指帰』が宮廷で広く読まれたことが『続日本後紀』承和2年3月25日条に記された大師の薨伝から分ります。『続日本後紀』には「《承和二年(八三五)三月庚午【廿五】》○庚午。勅遣内舍人一人。弔法師喪。并施喪料。後太上天皇有弔書曰。眞言洪匠。密教宗師。邦家憑其護持。動植荷其攝念。豈圖〓〓未逼。無常遽侵。仁舟廢棹。弱喪失歸。嗟呼哀哉。禪關僻在。凶聞晩傳。不能使者奔赴相助茶毘。言之爲恨。悵悼曷已。思忖舊窟。悲凉可料。今者遥寄單書弔之。著録弟子。入室桑門。悽愴奈何。兼以達旨。』法師者。讃岐國多度郡人。俗姓佐伯直。年十五就舅從五位下阿刀宿禰大足。讀習文書。十八遊學槐市。時有一沙門。呈示虚空藏聞持法。其經説。若人依法。讀此眞言一百萬遍。乃得一切教法文義諳記。於是信大聖之誠言。望飛焔於鑽燧。攀躋阿波國大瀧之嶽。觀念土左國室戸之崎。幽谷應聲。明星來影。自此慧解日新。下筆成文。世傳。三教論。是信宿間所撰也。在於書法。最得其妙。與張芝齊名。見稱草聖。年卅一得度。延暦廿三年入唐留學。遇青龍寺惠果和尚。禀P7062學眞言。其宗旨義味莫不該通。遂懷法寳。歸來本朝。啓秘密之門。弘大日之化。天長元年任少僧都。七年轉大僧都。自有終焉之志。隱居紀伊國金剛峯寺。化去之時年六十三」とあります。
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