地蔵菩薩三国霊験記 8/14巻の1/13
地蔵菩薩三国霊験記巻八目録
一本地垂迹知るべき事
二弥陀地蔵観音別名一躰の事
三偽りて夢想を示し罰を蒙る事
四花を盗み供養して感應を受る事
五愛着より菩提に入る事
六法花讀誦の僧功験を得る事
七信者の害を助け給ふ事
八爨(こしき)地蔵の事
九主人の姧氣を免さしめ給ふ事
十屋葺地蔵の事
十一会津黒河不信者罰を蒙る事
十二宇治橋寺地蔵の事
十三田に水を入れ信者を助給ふ事
地蔵菩薩三国霊験記巻八
一、本地垂迹知るべき事(沙石集巻一「和光の利益、甚深なる事」にあり)
原夫(たずぬるにそれ)漢朝には佛法を弘めんために儒童迦葉定光の三菩薩(仏説太子瑞応本起経によると、釈尊が古に定光仏の時、儒童菩薩が瞿夷王女から買った花を献じて仏に見え、九十一劫を経て釈迦如来になると授記された)孔子老子顔回と化して先ず外典をもて人の心を和らげて其後佛法弘通せしかば人皆此れを信じき(沙石集巻一太神宮の御事「漢朝には仏法を弘めんために、儒童・迦葉・定光の三人の菩薩、孔子・老子・顔回とて、まづ外典をもて人の心を和らげて、後に仏法流布せしかば、人、みなこれを信じき」)。我朝には和光の神明まず迹をたれて人のあらき心をやはらげて佛法を信ずる方便門とし給へり。されば本地甚深の利益を仰ぎ垂迹和光のちかき方便を信ぜば現世には息災安全の願をとげ當世には常住無為の悟を開くべし。先ず我が國に生を受けん人此の意を辨ふべきなり。所以者何(ゆへいかん)大聖の方便國により機に随ひて定る準(のり)はなし。聖人常の心なし、萬民の心を以て心と為すと言ふが如し(老子/第四十九章 任徳 「聖人無常心。以百姓心爲心。善者吾善之。不善者吾亦善之。徳善。信者吾信之。不信者吾亦信之。徳信。聖人在天下。歙歙爲天下渾其心。百姓皆注其耳目。聖人皆孩之。」聖人は常の心無く、百姓の心を以て心と為す。善なる者は吾れ之を善とし、不善なる者も吾れ亦た之を善とす。徳、善なり。信なる者は吾れ之を信とし、不信なる者も吾れ亦た之を信とす。徳、信なり。聖人の天下に在るや歙歙として天下の為に其の心を渾にす。百姓、皆な其の耳目を注ぐ。聖人は皆な之を孩にす)。法身は一切に遍じて萬物の身を以て身と為す。金剛頂経に曰、普賢法身は一切に遍ず(金剛頂瑜伽中略出念誦經卷第四「普賢法身遍一切 能爲世間自在主 無始無終無生滅 性相常住等虚空」)。大日経に云、有情及非情は阿字第一命なりと説き玉ふ(大毘盧遮那成佛神變加持經持明禁戒品第十五「我即同心位 一切處自在 普遍於種種 有情及非情 阿字第一命 嚩字名爲水 囉字名爲火 𤙖字名忿怒 佉字同虚空 所謂極空點 知此最眞實 説名阿闍梨 故應具方便 了知佛所説 常作精勤修 當得不死句」)。然れば無相の法身所具の十界は皆一切智毘盧の全躰なり。天台の心ならば性具の三千十界の依正みな法身所具の万徳なれば性徳の十界を修徳にあらはして普賢色身の力ら以て九界の迷情を度す。又密教の心ならば四重曼荼羅は法身所具の十界也。内証自性會の本質をうつれて外用大悲の利益をたる。顕密の心によりてはかりしりぬ。法身地より十界のみを現じて衆生を利益す妙躰の上の妙用なれば水をはなれぬ波の如し。真如をはなれたる縁起なし。西天上代の機には佛菩薩の形をげんじてこれを度す。我が國は粟散の邊地なり。剛強の衆生因果の道理をしらず、佛法を信ぜぬたぐひには同体無縁の慈悲によりて等流身の應用を垂れ、邪鬼悪神の形を現じ毒蛇猛獣の身を示し暴虐の輩を調伏して佛道に入給。されば我が國は神國として大権迹をたれ給ふ。且亦我等みなかの孫裔なり。氣を同じくする因縁あさからず。此の外の本尊をたずねばかえって感應へだたりぬべし。仍って機感相應の和光の方便を仰で出離生死の要道を祈り申さんにはしかじ。もっとも本迹そのこころおなじけれども機にのぞむ利益しばらく勝劣あるべし。とかく我が國の利益は垂迹のおもて猶すぐれて御坐(まします)。神明はあらたに賞罰有る故に信敬を厚くし菩薩は理に相應して遠き益は有ると云へども和光の方便よりもをだやかなるままに愚なる人、信をたつる事すくなし。諸佛の利益も若しある者にひとへに重し。されば愚痴のやからをりやくする方便こそ實に深き慈悲のいろこまやかなる善巧のかたちなれば、藍よりいずる色、藍よりも青きがごとく尊き事は佛よりいでて佛よりもたっときはただ和光神明の慈悲利益の色なるをや。爰に南都に小輔の僧都璋圓とて解脱上人の弟子にて博學の聞へありしが魔道に落ちて或女人に付きて種々の事共を申しける中に、我が大明神の御方便のいみじき事いささかも値遇し奉る人をばいかなる罪人なれ共他方の地獄へは遣はさずして春日野の下に地獄を構へて取り入れつつ毎日晨朝に第三の御殿より地蔵菩薩の洒水機に水を入れて散杖をそへて水をそそぎ給へば、一滴の水、罪人の口に入りて苦患暫く助かりて少し正念に住する時、大乗経の要文、陀羅尼なんど唱へて聞かせ給ふ事日々に懈りなし。此の方便によりて漸く浮かび出て侍る也。學生共は春日山の東に香山といふ所にて大明神般若をとき玉ふを聴聞して論議問答なんど人間にたがはず昔學生なりしはみな学生なりまのあたり大明神の御説法聴聞するこそ忝く侍れと語りける。地蔵は本社鹿嶋の三所の中の一也(鹿嶋三所は鹿嶋大明神(十一面観音)沼尾(地蔵菩薩)坂戸(薬師如来)とされる)。殊に利益目出くおはしまするとぞ申しあひ侍る。無佛世界の導師本師付属の薩埵なり。本地垂迹何れもたのもしくこそ。されば和光の利益はいずくも同事にや。日吉の大宮の後ろにも山僧おほく天狗となりて和光の方便によりて出離すとこそ申し傳へたれ。其れも諸社の中に十禅師(日吉山王七社権現の一。瓊瓊杵尊を権現とみていう称。国常立尊から数えて第10の神にあたり、地蔵菩薩 の垂迹とされる)靈感あらたに御坐(まします)。此れも本地は地蔵薩埵也。とにもかくにも人身をうけたる思ひで佛法にあへるしるしには一門の方便にとりつきて出離を心ざすべし。心地観経には一佛一菩薩をたのむを要法とすと説けり(大乘本生心地觀經卷第七波羅蜜多品第八「應當至心求見一佛及一菩薩。善男子。如是名爲出世法要。」)されば内に佛性常住の理を具せる事を信じ外には本地垂迹の慈悲を仰ぎて出離生死の道を心中にふかく思ひそむべきをや。此の心を得ざれば或いは應化の身をのみ信じて無相の法身を信ぜず或いは無相の法身を崇んで應用の方便を軽(かろし)むるはともに愚なり。燈をはなれて光なし。波をはなるる水なし。体用不二なり。妄りに分別をなすことなかれ。是の故に内心に無相の法身を観じて能所を忘れ外には慈悲の妙用を信じて感應をたのむべし。此れ行者肝要の用意なり。強ひて如是に勧むるは今の世の宗々偏執して或いは彌陀ならでは自餘の菩薩はたのむに詮なしと云ひ、又は佛道修行の人は神明なんどは異様なりなんどと云ひ、若しは又観音こそ末代の我等有縁の尊身を變じて機に随って得度せしめ給ふとさまざま一己の情を止めて大道の要を聞くことをえず。且く不動尊は威怒の身を現して悪魔を降伏して修行堅住の為に盤石の上に安住す。地蔵尊は慈愍柔和の形を示し順逆に嫌なく引導し玉へり。用相是の如く別なれども秘密内証をもてみれば、地蔵は大日柔軟の方便の至極、不動は剛強方便の至極となり、折受の二門世間の文武の政道其の揆ごと(はかりごと)一也。かるがゆえに地蔵は六趣四生の苦を助給ふは且く諸佛にすぎれさせ玉ふ。不動は三障四魔のさはりをのぞき給ふ事、先ずは諸尊に越給へり。斯の如き事を一二を工夫して信じ奉らばいよいよ功徳のふかかるべきなり。先徳の教訓牛に汗す、且く一毛をあぐるものなり。