靖国神社社頭掲示より「海軍上等兵 西村英吉命(昭和十九年十一月十二日、東支那海にて戦死。大阪市出身。三十八歳。) 明子へ 父は軍人の本分を盡して護国の人柱となる。明子は父の死を知り寂しく悲しく思ふだろうが 決して心配せぬ様にして欲しい。 父は死しても魂は明子と共に毎日一緒に暮らしてゐる。明子が立派な人になる様に、病気もせず元気に学校に行ける様に神様に祈っている。父が応召に際して書き付けた訓をよく守 . . . 本文を読む
今日は大師が入定に備えて「穀味を厭い、専ら禅定を好まれ」始めた日です。天長7年11月12日から、大師は穀味を「厭い、専ら禅定を好ま」れるようになっています。(御遺告に「・・われ去んじ天長九年十一月十二日より深く穀味を厭ひて専ら坐禅を好む。皆是令法久住の勝計、幷びに末世後世の弟子門徒のため也。・・われ入滅せんと擬するは今年三月二十一日寅刻なり・・」とあります。) . . . 本文を読む
1948年(昭和23年)11月12日は東京裁判結審の日です。途中で日本語通訳が行われなかったところがあります。
このような背景で押し付けられた憲法を半世紀以上後生大事に守っているのです。
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今日は後水尾天皇の第一皇女文智女王が圓照寺住職となられた日
後水尾天皇の第一皇女文智女王は、寛永十七年(1640)、22歳で仏頂国師を師として出家、大通文智尼となる。大通文智は翌寛永十八年(1641)、京都の修学院の地に草庵を結んだ。これが圓照寺の始まりであり、寛文九年(1669)十一月十二日現在地に移転とのこと。
円照寺は、三島由紀夫の『豊壌の海』では『月修寺』のモデルと言われています。
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観音經功徳鈔 天台沙門 慧心(源信)・・2/27
一、穆王霊山に至る事。
此の品(観世音菩薩普門品)を當途王經と名けて(妙法蓮華経秘略要妙・観世音菩薩普門品第二十五(浄厳)「當途王經(とうずおうきょう)一、當品を當途王經と號する事は、當世 尊大の経と云義なり。途とは世の義なり。一説に周の穆王八駿の馬に乗て西方に遊歴せられしに、天竺に至て、佛の普門品を説玉ふを受持して歸られしが故に、王の行途に當 . . . 本文を読む
「群青」の靈告
以前義兄が85歳で死去し葬儀に参列しましたが、其の時祭壇に義兄の剣道着が飾ってありそこには「群青会」と所属がかいてありました。義兄は剣道の達人で防大・海軍と剣道にも研鑽を積んできていましたので、老後も地元の剣道会に入っていてその名だろうと思っていましたが、帰宅して何の気なしにユーチューブを開くと、いきなり谷村新司の「群青」という曲が飛び込んできました。祭壇上の剣道着の「群青」と重 . . . 本文を読む
今日は守覚法親王の孔雀経法により、安徳天皇が出生された日です。仁和寺諸師年譜に「喜多院御室法親王守覚。後白河院第二皇子なり・・・勅請に応じ、修法すること十三箇度、効験これ多し。就中治承二年十月二十五日、宮中御産所に二十口の伴僧を引率し孔雀経法を修す。同年十一月十二日皇子誕生、翌日御感あり。勅書にいわく、先に三条殿においてこの法を修するの時、霊験殊勝なり、いままたかくの如し。謝する所なし云々。今に至 . . . 本文を読む
「「日本書紀・天武九年680十一月」「癸未(12日)皇后不豫。則ち皇后の為に誓願して初めて薬師寺を興つ。仍りて百僧を度したまふ。是に由りて安平なることを得たり。是の日罪を赦したまふ。」
天武天皇の皇后は鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ・天智天皇皇女で後の持統天皇)
お薬師様の効験あらたかであったということです。 - . . . 本文を読む