高野春秋「(大治二丁未年1127)、十一月二日、白河院・鳥羽院両太上皇、御幸山。是殊東塔西塔同日御供養法事の為也。御導師座主權僧正勝覚、呪願師検校良禅也。覚法親王亦供奉。」
覚法親王は白河天皇の第四皇子、鳥羽院は白河院の孫。白河院はこの時が三回目、鳥羽院は二回目の高野山参拝と思われます。覚法親王は保延七年(1141年)に鳥羽上皇の戒師をつとめ、皇子誕生や天皇の病気平癒のために孔雀 . . . 本文を読む
地蔵菩薩三国霊験記 13/14巻の9/9
九、満米法師の事
満米法師(平安時代前期の僧。大和(奈良県)真言宗金剛山寺(矢田寺)の上人。「矢田地蔵縁起」によれば,閻魔(えんま)王と地獄をめぐった際,罪人を救済する地蔵にあい,この世にもどって地蔵菩薩立像(国重文)をきざんだという。前名は満慶)和州金剛山に居て戒行の誉朝野にかくれなかりき。其の時の名臣小野篁と師弟の禮をなせり。この篁 . . . 本文を読む
密教辞典によれば、親厳僧正(越後大僧正・随心院大僧正・唐橋大僧正)は1151年仁平元年より1236年嘉禎二年十一月二日。八十六歳。京都の人。唐橋中納言親光の息。法住寺で顕厳から伝法灌頂を受け瑜伽を修し法験にすぐれ、神泉苑に祈雨すること数度、また天変の御祈・中宮御産にも修法した。隋心院初代門跡、大僧正、東大寺別当。門下に厳海、俊厳、宣厳、親杲。)また『東宝記』によれば、東寺御影堂の御本尊弘法大師像〈 . . . 本文を読む
元亨釈書「釈永観・・性慈仁。常に獄に往き飢寒を問ふ。・・又常に言曰く、病者は知識也。‥天永二年秋病む。徒に語って曰く、昔世尊八十にして涅槃さる。我今同歳なり、・・十一月二日沐浴して念誦す。異香芬郁、中夜頭北面西にして没す。紫雲壁に垂る。」
本朝高僧傳には「釈永観・・囚人に恤し説法授戒す。・・病人は善智識なり。我病を以て四大不堅を知る・・」
. . . 本文を読む
史料綜覧 巻十三 / 慶長六年(1601)閏十一月二日条
「二日(中略)是ヨリ先(慶長五年のことか)豊臣秀頼 摂津天王寺ヲ再建ス 是日 同寺秋野房(注1)ヲシテ寺務ヲ執ラシメ 又退散セシ寺僧ノ復帰ヲ許サシム」
(注1)僧侶集団の一の名称・寺の財務等を司ったか
(以下ウキぺデアに依ります。四天王寺は天正4年(1576年)5月には織田信長による大坂本願寺攻め、いわ . . . 本文を読む
史料綜覧 巻五 / 文永十一年(1274)十一月二日条
「二日 亀山上皇 御書ヲ山陵八所ニ献ジ 延暦寺 東寺ヲシテ 異国降伏ノ祈禱ヲ修セシメラル」
10月5日には蒙古軍が対馬に上陸。10月20日 には博多に上陸していましたから必死の祈願だったと思います。
八幡愚童訓には
「文永十一年1274十月五日の申の時に対馬の西面差浦に異国の船四百五十艘三万人乗連て寄来たる。同日の酉の刻に国府の地頭所 . . . 本文を読む
史料綜覧 巻五 / 文永九年(1272)十一月二日条
「二日 仏眼法(注1)ヲ東寺ニ修シテ 異国降伏ヲ禱ラシム」
(天皇は亀山天皇、執権は時宗。この頃は元から第六回目の使節が来ていました。(『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十三年(1272)(四月)甲午(七日)の条「甲午、遣御史康之卲、護日本使還其國。」))
(注1)佛眼法の御本尊「佛眼佛母尊」は最強の . . . 本文を読む