「それ釈教は浩汗にして際なく涯なし、一言にしてこれを蔽えばただ二利にあり。常楽の果を期するは自利なり、苦空の因を救うは利他なり。空しく常楽を願うも得ず、徒に抜苦を計れどもまた難し、必ずまさに福智(注1)兼ねて修し、定慧(注2)並べ行じて、いましよく他の苦を救い、自の楽を取るべし。(御請来目録)」(自他を救うためには、仏教の教理を学び、六波羅蜜特に布施行を実践し、禅定と智慧を磨かなければならない). . . . 本文を読む
今日はお大師様が高雄山神護寺ではじめて仁王法を修せられた日です。以下の「国家の奉為に修法せんと請ふ表」に「國家の奉為に諸の弟子等を率ゐて、高雄の山門にして来月一日より起首して法力の成就に至るまでに、且は教へ、且は修せむ」とあります。「国家の奉為に修法せんと請ふ表」(性霊集第四)「沙門空海言す。空海幸に先帝の造雨に沐して遠く海西に遊ぶ。儻灌頂の道場に入て、一百余部の金剛乗の法門を授けらるること得たり . . . 本文を読む
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史料綜覧巻七 / 応永三十三年(1426)十一月一日条
「一日(中略)幕府 摂津多田院ノ鳴動(注)ニ依リテ 諸寺ヲシテ之ヲ祈ラシム」
称光天皇、室町幕府は足利義量。この頃特に災害等の異常は記録なし。
(注)多田院のホームページに . . . 本文を読む
昔の日本人は今と大きく違い中国に対する緊張感・警戒感を国を挙げて持っていたということです。これが三度目の元寇を防いだ原因でしょう。
史料綜覧 巻五 / 弘安七年(1284)十一月一日条
一日 幕府 諸国ノ神社仏寺ニ命ジテ 異国降伏ヲ祈ラシム
後宇多天皇、幕府は時宗が四月に死去し子の北条貞時(満12歳)が執権。
ウキぺデアによると、フビ . . . 本文を読む
「日本書紀・推古天皇十一年(603)」
「十一月己亥朔(1日)、皇太子、謂諸大夫曰『我有尊佛像、誰得是像以恭拜』。時、秦造河勝進曰、臣拜之。便受佛像、因以造蜂岡寺」
(聖徳太子が諸大夫(まえつぎみたち)に「自分が持っている尊い仏像を、誰か恭拝しないか。」と言ったところ、秦河勝(はたのかわかつ)が進み出て「自分が拝む。」と言い、仏像を受け取って蜂岡寺(はちおかでら)を造った) . . . 本文を読む
地蔵菩薩三国霊験記 13/14巻の8/9
八、清水寺、将軍地蔵の事
延鎮法師(平安前期の法相宗の僧で京都清水寺の開祖。一説に弘仁12(821)年没。報恩の高弟で師の没後,子島寺を継いだ。宝亀9(778)年京都の乙輪(音羽)山に移り,延暦17(798)年坂上田村麻呂がその地に開いた清水寺の開祖となった)は報恩法師(七一八頃〜七九五)は、吉野山を中心に五十年近く山林修行。特に観音の陀羅尼を持誦し、 . . . 本文を読む
「日本書紀崇神」「六年(ろくねん)に百姓(おほみたから)流離(さすら)へぬ。或(ある)いは背叛(そむ)くもの有(あ)り。其(そ)の勢(いきほひ)、德(うつく
しび)を以(も)て治(おさ)めむこと難(かた)し。是(ここ)を以(も)
て、晨(つと)に興(お)き、夕(ゆうべ)までに惕(おそ)りて、神祇(あ
まつかみくにつかみ)に請罪(のみまつ)る。」とあるように国中が疫病などで乱れ . . . 本文を読む