崇光天皇御願文に「 敬白 伊勢太神宮 立願の事 右心中の祈請成就の為、奉納する所の仏舎利一粒なり。即ち是 髻中の寶杲、身内の極秘なり。尊廟哀愍納受、須らく悉地円満ならしめ給へ。仍って立願すること件の如し。永和二年十一月十一日 太上天皇 興仁敬白」永和二年(北朝の年号)は1376年。この時代の天皇は、北朝方が後円融天皇。南朝方が長慶天皇。室町幕府将軍は足利義満。このころは鹿児島の島津氏が南朝についた . . . 本文を読む
眞言付法纂要抄 成尊(後三条天皇(11世紀)の護持僧でもあった小野僧都成尊(小野曼荼羅寺二世、東寺長者、明算の師)は天皇の諮問にこたえて『真言付法纂要抄』を呈した。成尊に対する後三条天皇の信頼は特別で、即位灌頂も成尊から受けている。大江匡房「後三条院御即位記」に「 又 ( 三条院)即位時は 、 小 安殿より 笏を端し、歩 行 云 々 、今の 度 は 然らず 、主 上 (後三条天皇)此 間手を 結び . . . 本文を読む
今日は花園法皇崩御の日
以下ウキぺデア・宸翰英華等に依ります。
花園天皇は第九十五代天皇。延慶元年(1308年)8月25日、大覚寺統の先帝後二条天皇が急死したために翌26日に12歳で践祚、11月16日に即位。在位の前半は父の伏見上皇が、後半は兄の後伏見上皇が院政を布いた。文保2年(1318年)2月、大覚寺統の尊治親王(後醍醐天皇)に譲位。
禅に傾倒し宗峰妙超と関山慧玄を師とし . . . 本文を読む
今日は静観僧正増命遷化の日です。
以下ウキぺデア等に依ります。
増命は承和十年(843年) - 延長五年927十一月十一日。平安時代前期の天台宗の僧。父は左大史桑内安峰。死後に静観僧正の号を下賜(『師元年中行事』には「静観大師忌日」とあります)。第十代天台座主。
円仁から天台教学を学び、円珍から灌頂を受け智証大師流を伝える。貞観十年(868)には清和天皇のために『宗論御八講』 . . . 本文を読む
明算中院流祖、高野山中興。一に中院御坊と言ひ、俗姓は佐藤氏。紀州那賀郡田中庄神崎邑の人。治安元年誕生。長元四年1031十一歳の春、祈親上人に伴はれて高野山に登り東室に入り、翌五年上人に随って薙髪修学す。長久元年春中院に移住し、永承四年1049八月釈王寺頼尋に就いて伝法灌頂を受け、天喜五年1057四月始めて御影堂に十六口の山籠僧を申置し、御影供を始行す。同六年七月小野曼荼羅寺に至り、成尊に謁して大日 . . . 本文を読む
「太神宮諸雑事記」「天平十四年749十一月三日、右大臣橘朝臣諸兄卿、伊勢大神宮に参入、其の故、(聖武)天皇御願寺建立されるべき之由宣旨に依ると祈り申される所なり。而して勅使帰参之後、十一月十一日夜半、天皇の御前に玉女示現し給ふ。坐りて即ち金色光を放ちて、宣ぶ、『本朝は神国なり。神明を欽仰し奉るべきなり。而して日輪は大日如来也。大地は廬舎那仏也。衆生之を悟り當に佛法に帰依すべきなり』 . . . 本文を読む
観音經功徳鈔 天台沙門 慧心(源信)・・1/27
観音經功徳鈔目録
一穆王霊山に至る事
二當品を讀誦して疫病を除く事
三法華彌陀観音一躰の事
四題の外品の内に妙法の言は之無き事
五別號の観音の事幷翻名の事
六盲人眼を開く事
七涅槃普門勝劣の事
八長劔火難を遁るる事
九事理一心称名の事
十劉澄水難を遁るる事幷風難の事。姫殺害を遁るる事。二鬼羅刹の事。亡魂の事。
十一月蓋の事。 . . . 本文を読む
今日は天台座主増命示寂の日。増命は、承和10年(843年)生まれ -、延長5年11月11日(927年12月7日)没。日本往生極楽記(慶滋保胤)「延暦寺座主増命は左大史桑内安峰が子なり。父母子なし。祈って和尚を生む。和尚天性慈仁。少にして児戯なし。夢みらく、梵僧あり、来りて摩頂して曰く「汝、菩提心を退く莫れ」。この如くなること数(あまたた)びなり。受戒後、未だかって臥寝せず。智証大師に就きて三部の大 . . . 本文を読む