井筒俊彦
[意味分節理論と空海-真言密教の言語哲学的可能性を探る]
<略>
旧来の思想の構造解体が云々され、新しい知のパラダイム、新しい「エピステーメー」が、全世界的に、切実な要求となりつつある今日、我々、東洋人も、己れの思想的過去を現代的思想コンテクストの現場に曳き出して、そこに、その未来的可能性を探ってみようとする努力を、少なくとも試みるべきではないだろうか。私がこれから語ろうとしている真言密教、空海の思想も、そのような知的操作に価する、あるいは、それを必要とする、重要な東洋的文化財の一つである。
真言密教をいま言ったような方向性において捉え、それを現代的思想のテクスチュアのなかに織り込んだ場合、それは一体どのような意義を帯びてくるであろうか。この点で先ず注意されなければならないことは、この思想体系の全体を支配する根源的に言語哲学的な性格である。勿論、真言密教なるものは、それ自体、実に複雑な構成をもつ、多重多層、かつ多面的複合体であって、言語の一事をもって一切を覆い尽くせるようなものではない。だが、真言密教は、要するに「真言」密教である。「真言」(まことのコトバ)という名称の字義どおりの意味が、それのコトバの哲学としての性格を端的に表明している。この意味ではコトバは決して真言密教の一側面ではない。コトバが全体の中心軸であり、根柢であり、根源であるような、一つの特異な東洋的宗教哲学として考えることができる―――あるいは、少なくともそう考えなければならない―――思想体系であるのではないか、と私は思う。
他方、現代世界の思想状況に目を転じてみると、コトバに対する異常な関心に、我々は出会う。事実、ヨーロッパの学界に構造主義が現われて以来、いわゆるポスト構造主義の隆盛期を経て、さらにその彼方への超出すら考えられている現在に至るまで、言語および言語的なるものが、思想界のあらゆる分野における人々の関心を圧倒的に支配してきた。西欧だけでなく、日本の思想界もまた。東西の別なく、今日我々が特に「現代的」と感じている思想の前衛的部分については、言語あるいは記号に関説することなしには、何事も語ることができず、何事も理解することができない。それが現代的人間の思想コンテクストである。問題は、このような思想コンテクストの舞台に、真言密教の言語哲学が登場するとき、それは何を告げ、何を語るであろうか、ということだ。
真言密教は、千年の長きにわたって、コトバの「深秘」に思いをひそめてきた。コトバの深秘学。この特異な言語哲学は、第一義的には、コトバの常識的、表層的構造に関わらない。表層的構造の奥にひそむ深層構造とその機能を第一義的な問題とする。人間言語の秘密をその究極の点まで、それは追求していこうとする。我々の日常的生活のレベルで、かまびすしく震動するコトバが、その究極の深層において、そもそもいかなる本性を露呈するであろうか、いかなる機能を発揮するだろうか、それを、このコトバの深秘学は実体験的に探ろうとする。真言密教のこのような特異な言語哲学が、現代世界の言語中心的思想動向に無意味であろうはずがない、と私は考える。コトバの深秘についての真言密教の省察は、取扱いのいかんによっては、現代思想の広場で、一種のアヴァンギャルド的言語哲学にまで展開する潜在能力をうちに秘めている。もとより、私自身にそこまで行ける才がないことはわかっているが、少なくともそのような線に沿って、以下、理論的に追及してみようと思う。
本論の表題そのものによって明示されているとおり、私がここで「理論的に」と言うのは、より具体的には、意味分節理論の観点から、ということである。すなわち、真言密教の言語哲学を、現代的な思惟の次元に移して展開するために、私はそれを意味分節理論的に基礎づけることから始める。そして、この目的のために、その第一歩として、先ずコトバに関する真言密教の思想の中核を、「存在はコトバである」という一つの根本命題の還元する。
「存在はコトバである」。あらゆる存在者、あらゆる「もの」がコトバである、つまり存在は存在性そのものにおいて根源的にコトバ的である、ということをこの命題は意味する。一見して明らかなように、こういう命題の形に還元された真言密教は、もはや密教的ではない。宗教的ですらない。「真言」という観念を、一切の密教的、宗教的色づけを離れて、純粋に哲学的、あるいは存在論的な一般命題として提示するにすぎない。そのような純粋に哲学的な思惟のレベルに移管しておいて、その上で「真言」(まことのコトバ)ということの意味を考えなおしてみようというのである。
だが、それにしても、「存在はコトバである」というこの命題は、具体的には一体どんな事態を言い表そうとしているのだろうか。
<略>
元来、常識では、存在とコトバとの関係をこんなふうには考えていない。コトバと存在とは、それぞれ独立の観念系統をなしているのであって、両者の間にはせいぜい相応関係が成立するにすぎない。存在が、即、コトバである、つまり、この経験世界に存在するありとあらゆる事物事象、いわゆる森羅万象、がことごとく、本当はコトバなのであるなどと考えるのは、完全に非常識である。
そればかりではない。存在とコトバとの間に対応関係があるにしても、常識的存在論、常識的認識論の立場から見るなら、両者の間には、順位上の「ずれ」がある。というのは、存在、つまり「もの」が、どうしてもコトバに先行すると考えざるを得ないからだ。先ず「もの」がある、それをコトバが命名する、あるいは指示する、のであって、その逆ではない。そう考えるのが、我々の常識としては、ごく自然な考え方なのである。ところが、いま、「存在はコトバである」という命題の立場は、まさにこの常識的見解の逆を主張する。つまり、コトバが存在に先行し、そういう順位で存在とコトバとの間に固定関係が成立する、というのだ。
我々の普通の経験的事実としては、事物事象の世界、いわゆる存在世界は客観的にそれ自体で独立していて、我々の目の前にひろがっている。森羅万象は、第一次的には、コトバと関係なしに存立する。それらを様々に名づけ、あるいは既成の名によって指示することは、事物事象の客観的存立そのものから見れば、人間の側の第二次的な操作にすぎない。常識的人間にとっては、それは疑いの余地のない事実である。
「存在はコトバである」という立場を取る非常識な人に言わせると、常識的人間のこのような「事実」は、存在の表層風景にすぎないのであって、事の真相(深層)は、それとは全く違う。表層風景としては、たしかにそれ自体で自立的にそこにあるかのように存在世界が現象している。しかしそれは、実は、全体としても、またそれを構成する個々の事物としても、すべて根源的にコトバ的性質のもの、コトバを源泉とし、コトバによって喚起され定立されたもの、つまり簡単に言えば「コトバである」のだ、という。明らかに常識に反するこのような主張を、どう了解したらいいのか。この問題を考究することは、我々を意味分節理論の領域に導き入れる。そして、それを通じて、真言密教の言語哲学の中核に、我々は近づく。