一 貪欲と嫌悪と愚かな迷いとは思いから生ずると説かれている。何となれば、それらは浄と不浄と誤った顛倒とに縁って起こるからである。
二 浄と不浄と顛倒とに縁って起こるそれらのものは、それ自体としては存在しない。それ故にもろもろの煩悩は、本体についていえば、存在しない。
三 アートマンの存在と非存在(無)とは、いかにしても存在しない。それが無いのに、もろもろの煩悩の存在と非存在とが、どうして成立しえようか。
四 これらの煩悩はだれか或る人に属するものとして存在している。しかしその人が成立しないのである。なにか或るもの(依りどころ)が無いならば、もろもろの煩悩はいかなる人にとっても存在しないのである。
五 自分の身体をアートマン(我)とみなす見解の場合のごとく、煩悩に汚れている人について五種にもとめてみても、もろもろの煩悩は存在しない。自分の身体をアートマンとみなす見解の場合のごとくもろもろの煩悩について五種に求めてみても、煩悩に汚れた人は存在しない。
六 浄と不浄と顛倒とは、それ自体としては存在しない。いずれの浄と不浄と顛倒とに縁ってもろもろの煩悩が起こるのであろうか。
七 色かたちと音声と味と触れられるものと香りと思考されるものとが、貪欲と嫌悪と愚かな迷いとに対して六種の対象であると考えられている。
八 色かたちと音声と味と触れられるものと香りと思考されるものとは、それのみのものであって、【実体が無く】、蜃気楼のかたちをもち、陽炎や夢のようなものである。
九 これらの幻人(魔法によって現出された人々)のごときもの、彫像に等しいものにおいて、どうして浄とか不浄とかがありうるであろうか。
一〇 浄に依存しないでは不浄は存在しない。それ(不浄)に縁って浄をわれらは説く。故に浄は不可得である。
一一 不浄に依存しないで浄は存在しない。それ(浄)に縁って不浄をわれらは説く。故に不浄は不可得である。
一二 清らかなみごとなものが存在しないならば、どうして貪欲が起こるであろうか。また不浄なものが存在しないならば、どうして嫌悪が起こるであろうか。
一三 もしも無常なるものに関して、常住であると思うこのような執著が顛倒であるならば、空なるもののうちには無常は存在しない。どうして執著が顛倒であるのか。
一四 もしも無常なるものに関して、それが常住であると思うこのような執著が顛倒であるならば、無常であると思う執著も、空なるものに関しては、どうして顛倒でないのだ。
一五 なにものによって執著するのであろうととも、いかなる執著でも、また執著者でも、また執著されるものでも―――
それらはすべてやすらぎに帰している。それ故に執著は存在しない。
一六 邪であろうとも、正であろうとも、執著は存在しないから、誰によって顛倒が存するのであろうか。また誰にとって非顛倒が存するのであろうか。
一七 顛倒せる者にとってもろもろの顛倒は成立しない。また顛倒していない者にとってももろもろの顛倒は成立しない。
一八 いま現に顛倒しつつある者にとってもろもろの顛倒は起こらない。 汝みずからよく熟考せよ。何人にとってもろもろの顛倒が起こるのであろうか。
一九 まだ生じないもろもろの顛倒がどうして起こり得るであろうか。もろもろの顛倒がまだ生じないのに、どうして顛倒のうちにある者がありえようか。
二〇 事物は自体からも生じない。他のものからも生じない。自体と他のものからも生じない。顛倒した見解をいだくものがどうしてありえようか。
二一 もしもアートマンと浄きものと常住なるものと安楽なるものが存在するのであれば、アートマンと浄きものと常住なるものと安楽とは顛倒ではない。
二二 もしもアートマンと浄きものと常住なるものと安楽なるものが存在しないのであれば、無我と不浄と無常と苦しみも存在しない。
二三 このように顛倒が滅するが故に、無知(無明)が滅する。無明が滅したときに形成力(行)なども滅する。
二四 もしも実にそれ自体として実在するいずれかのもろもろの煩悩が誰かに属しているのであるならば、どうしてそれを断じて捨てることができるであろうか。誰がそれ自体を捨てることができるであろうか。
二五 もしも実にそれ自体として実在しているのではないいずれかの煩悩が誰かに属しているのであるならば、どうしてそれを断じて捨てることができるであろうか。誰が実在しないものを断じて捨てることが出来るであろうか。
二 浄と不浄と顛倒とに縁って起こるそれらのものは、それ自体としては存在しない。それ故にもろもろの煩悩は、本体についていえば、存在しない。
三 アートマンの存在と非存在(無)とは、いかにしても存在しない。それが無いのに、もろもろの煩悩の存在と非存在とが、どうして成立しえようか。
四 これらの煩悩はだれか或る人に属するものとして存在している。しかしその人が成立しないのである。なにか或るもの(依りどころ)が無いならば、もろもろの煩悩はいかなる人にとっても存在しないのである。
五 自分の身体をアートマン(我)とみなす見解の場合のごとく、煩悩に汚れている人について五種にもとめてみても、もろもろの煩悩は存在しない。自分の身体をアートマンとみなす見解の場合のごとくもろもろの煩悩について五種に求めてみても、煩悩に汚れた人は存在しない。
六 浄と不浄と顛倒とは、それ自体としては存在しない。いずれの浄と不浄と顛倒とに縁ってもろもろの煩悩が起こるのであろうか。
七 色かたちと音声と味と触れられるものと香りと思考されるものとが、貪欲と嫌悪と愚かな迷いとに対して六種の対象であると考えられている。
八 色かたちと音声と味と触れられるものと香りと思考されるものとは、それのみのものであって、【実体が無く】、蜃気楼のかたちをもち、陽炎や夢のようなものである。
九 これらの幻人(魔法によって現出された人々)のごときもの、彫像に等しいものにおいて、どうして浄とか不浄とかがありうるであろうか。
一〇 浄に依存しないでは不浄は存在しない。それ(不浄)に縁って浄をわれらは説く。故に浄は不可得である。
一一 不浄に依存しないで浄は存在しない。それ(浄)に縁って不浄をわれらは説く。故に不浄は不可得である。
一二 清らかなみごとなものが存在しないならば、どうして貪欲が起こるであろうか。また不浄なものが存在しないならば、どうして嫌悪が起こるであろうか。
一三 もしも無常なるものに関して、常住であると思うこのような執著が顛倒であるならば、空なるもののうちには無常は存在しない。どうして執著が顛倒であるのか。
一四 もしも無常なるものに関して、それが常住であると思うこのような執著が顛倒であるならば、無常であると思う執著も、空なるものに関しては、どうして顛倒でないのだ。
一五 なにものによって執著するのであろうととも、いかなる執著でも、また執著者でも、また執著されるものでも―――
それらはすべてやすらぎに帰している。それ故に執著は存在しない。
一六 邪であろうとも、正であろうとも、執著は存在しないから、誰によって顛倒が存するのであろうか。また誰にとって非顛倒が存するのであろうか。
一七 顛倒せる者にとってもろもろの顛倒は成立しない。また顛倒していない者にとってももろもろの顛倒は成立しない。
一八 いま現に顛倒しつつある者にとってもろもろの顛倒は起こらない。 汝みずからよく熟考せよ。何人にとってもろもろの顛倒が起こるのであろうか。
一九 まだ生じないもろもろの顛倒がどうして起こり得るであろうか。もろもろの顛倒がまだ生じないのに、どうして顛倒のうちにある者がありえようか。
二〇 事物は自体からも生じない。他のものからも生じない。自体と他のものからも生じない。顛倒した見解をいだくものがどうしてありえようか。
二一 もしもアートマンと浄きものと常住なるものと安楽なるものが存在するのであれば、アートマンと浄きものと常住なるものと安楽とは顛倒ではない。
二二 もしもアートマンと浄きものと常住なるものと安楽なるものが存在しないのであれば、無我と不浄と無常と苦しみも存在しない。
二三 このように顛倒が滅するが故に、無知(無明)が滅する。無明が滅したときに形成力(行)なども滅する。
二四 もしも実にそれ自体として実在するいずれかのもろもろの煩悩が誰かに属しているのであるならば、どうしてそれを断じて捨てることができるであろうか。誰がそれ自体を捨てることができるであろうか。
二五 もしも実にそれ自体として実在しているのではないいずれかの煩悩が誰かに属しているのであるならば、どうしてそれを断じて捨てることができるであろうか。誰が実在しないものを断じて捨てることが出来るであろうか。