福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

土曜日の定例会の模様をIさんと角田さんが記録してくださいました

2014-10-20 | 開催報告/巡礼記録
「護国寺ではお茶会シーズンを迎え、秋らしい1日でした。
護国寺定例参拝会は、かわいい幼児の参加者1名を加え、11名の参加者でした。中塚さんのご紹介で魅力的な女性講員が増え女性は5名参加されました。
18日は、観音様の縁日で御開帳日にあたり、いい日に参拝できましたことをありがたく思います。
いつものとおり、全員で般若心経、観音経、諸真言をお唱えしました。
先月から、参拝の後、皆でゴミ拾いをしています。今年はお四国開創1200年などをはじめ、とてもありがたい年にあたります。ゴミ拾いは小さなことですが、講員皆で利他行をすることで、さらに皆様がよりよいお陰をいただければ幸いに思います。(I)」

「護国寺参拝で、勤行のあと、講員全員で、同寺山門前の大通りの沿道歩道で、散らかつているゴミを、拾い集める、「布施行」をする。人目に目立たない、”無言行“だが、たかがゴミ拾いというなかれ、講員にとっては、信心を固める実践行なのである。確かに、道端などで、無造作に、投げ捨てられている空き缶、ペットボトル、ビニール包み紙など、目に付いても、ああ、ゴミがあるなと、感じるだけで、殆ど、気に留めないで、やり過ごしているのが、普通の状態である。また、電車の中で、ゴロゴロ空回りしている空き缶なぞ、見つけても、さて、どうしようか?と、躊躇し、恥ずかしいなと、見てみぬ振りをしてしまう。自分の一挙手一投足をつい、意識して、人目を気にして、過ごしてしまう。行為として、善行なのだが、羞恥心が、頭をもたげて、一歩、実践的決断に踏み切れない。寺社の参詣でも、同じことが言える。初詣など、大勢の人たちと、一緒に、参拝、お祈りすることは出来ても、人通りの多い、道端に立っている小さなお地蔵さんに、きちんと手を合わせ、お参りすることも、なかなか、勇気がいることで、慣れないと、自然には出来ないことである。

その、心理的な羞恥心を、道徳的な行為として果敢に実践することで、さらに、自身を「利他行」を励行する宗教的な行為に、高めるための、"修行"に、反転させると言う深い意義が、このゴミ拾いにあると思う。 

確かに、このゴミ拾いは、慣れて、身についてくると、巡行や、参拝行でなくても、目のまえに、ゴミがあるのを、見つけると、ごく自然に、拾おうと、衝動に駆られる。この時の、心理状態は、「利他行」をしているのだと言う自覚的認識は、全くなくなっている。

仏を、信心する究極のところは、こうした、無意識の裡に、仏の仲間入りをして、仏と共に、「利他行」を行っていると言うことなのかもしれない。

参拝の帰り、何時も行きつけの、歓談する店が、珍しく満席だった。講員のAさん(女性)から、東京・飯田橋の馴染みのイタリア・レストランに、案内していただいた。これまでは、和風の店ばかりだったので、洋風の、瀟洒な雰囲気の店は、高原講元様も、講、始まって以来の出来事と、ノリノリの様子だった。この日の参加者は、ご婦人方が多く、華やかな会になり、高原講元様の法話にも、力がはいっていた。Bさんの、高野山詣でをしたときの、不思議な体験。仏教学の話題など。話は尽きなかった。高原講元様も、昔俗世で、社員一同で毎日道路掃除をして社の大ピンチを切り抜けたというお蔭の一端を披露された。

この日、高原講元様が、説かれた"法話"は、神仏から「おかげ」を戴いていることについてであつた。

私たちが、神社仏閣に回ったり、特に、自宅では、仏前で、勤行して、「おかげ」をいただくため、
仏に、懸命にお願い事をすることがあっても、仏から、私たちに、「おかげ」を戴いていることを知らないでいる。私たちは、仏に、願い事をお頼みするばかりで、仏から、おかげを戴いていることを知らないでいるのではなかろうか。仏は、必ず我々の願いを、聞き入れてくださっている。そして、「おかげ」を、与えてくださっている。その、「おかげ」を感じ取っていないのではないか、という趣旨だった。

仏に願をかけることは、一方交通ではない。必ず、仏は、我々の願いを聞いてくださっている。ただし、仏も、大変忙しい。多くの人たちからの願いを、きちんと、聞いていただき、ちゃんと「おかげ」として返してくださっているという。だが、残念なことに、我々は、物事を、「損」か「得」と、打算的な損得勘定の二元論思考に慣らされてしまっている。だから、自分の都合によって、願い事の価値判断をして、まだ、願いが叶わないと、嘆き、愚痴をこぼしている。甚だしきは、もう、神仏などないのではないかと、虚無的になることもしばしばである

しかし、仏は、ちゃんと、「おかげ」をこうむらしておられることである。この「おかげ」は、どんな形で、どんな名目で、どのくらいの量や大きさかは、その人によって異なる。また、その人の、仏から送られてくる「おかげ」の受容の仕方、や、感受能力によって、異なるかもしれない。その感受能力の精度を上げるために、修行・勤行・巡礼・遍歴など、様々の努力をしているということではなかろうか?

その修行の行為の中でも、尤も大切なことは、「衆生無辺誓願度」と言う誓願である。この誓願が、自分の存在の真ん中・中心になつている位置で行わなければ、何にもならないということであった。

いま、殆どの人たちは、身の回りに、十数万と言われる寺社があるのに、神仏に頼ろうとする考えはなく、自己中心のエゴイストになり、無神論者となり夢遊病的生き方をしている。神仏のように、目に見えない存在を信じるより 、利便・快適・身の回りの資産の所有などの快感を追求するため、それを叶える「金・かね・カネ」を盲信しあくせく、心神を消耗する生活をしている。弱肉強食の思想は、現代社会では、規制緩和、自由競争の姿として現れ、経済・産業などの場では、会社同士の食い合いとなり、職場にあっては、足を引っ張ぱりあうギスギスした人間関係になり、強度のストレスをかかえた深刻な病理状態をつくり出している。

こうした状態では、これからの、社会の発展は、考えられない。絶望と放縦だけの社会のなるのは、必至ではなかろうか。神仏も、黙ってはいられないだろう。キリスト教では、神による「最後の審判」があるそうだ。しかし、この「最後の審判」も1世紀から、21世紀まで、いつの時代も、神の厳格な審判を行われることを、人々に、期待と希望をもたらしてきたはずなのだが、いつ行われるのだろうか?

神仏は、1200年にわたって、日本の人たちに、希望と慰めを与え続け、今日に至っている。どんな所にも神社があり、寺院がある。2500年前に、仏陀が覚られた思想・哲学が、いまなお、息づき、人々に「おかげ」をもたらせている。人間は、究極的には、人智では計り知れない「神秘」な存在を信じざるを得ない“宿命”のようなものを持っているのだと思う。

高原講元が主張される、自分の身近な所で、神仏を一体として礼拝する、「マイ神仏霊場」を持とうと言う提唱に賛同するゆえんである。身近な所にまします神仏を崇め、礼拝する敬虔な姿勢こそ、信仰者の姿であるかもしれない。身近な所にいます神仏をさておいて、遠くの威容を誇る社寺の神仏を信ずるというのは、やはり、損得を無意識に意識した、悲しい人間の業かもしれない。と思うのだが。

昨今、庶民に「範」を足るべき、政府の大臣が、いとも簡単に、辞任してしまう。其れも、一人だけでなく、複数になるらしい。うち、一人の大臣は自分の部下から、調べを受ける立場に成る可能性があるという具合である。大臣の更迭は、いまや、ショーになってしまった。そして、これを、咎める人も少なくなってしまった観がある。実に、混沌とした世相になってしまった。

だからこそ、神仏を崇め、人間の「範」を尋ね求める必要があると思うこのごろである。(角田記)

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