福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」・・2

2013-12-22 | れわれはどこから来たのか われわれは何者
「死」についての仏教大辞典の解説です。
梵語末刺諵maranaの訳。・・壽と煖と識とを捨して諸根悉く変壊する相をいう。雑阿含経第二十一に「壽と煖と及び識とは,身をを捨する時倶に捨す。彼の身を塚間に棄つるに心なくして木石の如し」といひ、又倶舎論第五の頌に「命根は體すなわち壽なり。よく煖と識とを持す。壽と煖と及び識と三法の身を捨するとき、所捨の身僵仆(きょうぼく)す。木の思覚なきが如し」といへるこれなり。命終時の心相に関しては顕楊聖教論第十九に「命終時に三種の心あり、いわく善心と不善心と無記心となり。これ分明心に在るの位なり。若し不分明の位に至らば定んで唯無記なり。また命終の後にあるいは中有あり、いわく将に有指色界に生ぜんとするものなり。或いは中有なし、いわく将に無色界に生ぜんとするものなり」といへり。これ最後の命終には必ず不苦不樂の異熟無記心に住し、ついで死有より中有に移り、更に中有より生有に至ることを説けるものなり。小乗有部等においては命終の後、単に業力によりて他生に趣くとなすといえども、大乗においては阿頼耶識ありて間断なく、三世に相続すとなすなり。

死の因に関しては多説あり。大毘婆沙論 第二十に「また施設論に曰く、四種の死あり、一には壽つくるがゆえに死す、財つくるのゆえに非ず。一類あり、短壽の業及び多財の業あるも、彼後時において財つくるがゆえに死し、壽つくるのゆえにあらざるが如し。三には壽つくるがゆえに死し、及び財つくるのゆえなり。一類あり、短壽の業及び少財の業あり。彼後時において壽つくるがゆえに死し、及び財尽くるのゆえなるがごとし。四には壽つくるがゆえに死するに非ず、亦財尽くるが故に非ず、一類あり、長寿の業及び多財の業あるも、彼後時において財と壽と共に尽きずといへども而も悪縁に遇うて非時にして死するがごとし」といひ、

・・また大般涅槃経第十二に「なんらかを死となす、死とは所受の身を捨するなり、
所受の身を捨するに亦二種あり、一に命尽死、二に外縁死なり。命尽死とは亦三種あり、一には命尽く、是福の尽きたるにあらず。二には福尽く、是命の尽きたるにあらず。三には福と命と共に尽きるなり。
外縁死とは復た三種あり。一には非分に自害して死し、二には他の為に死し、三には倶に死するなり。また三種の死あり、一に放逸死、二に破戒死、三に壊命根死なり。・・・」

又勝鬘経には「二種の死あり、何等を二と為す、いわく分段死と不思議変易死なり。分段死とはいわく虚偽の衆生なり。不思議変易死とはいわく阿羅漢と辟支仏と大力菩薩との意生身、乃至究竟無上菩提なり」といへるこれなり。

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