「理性的認識」は抽象的概念と記号の精緻な体系を築く知的な手続きから生まれます。しかもそのほとんどは高度に構造化された数学の言語で表されます。概念と情報を積み重ねていけば「究極の認識」に達することができるのでしょうか。・・・
仏教ではこういう約束事としての有効な認識(理性的認識)と「究極の認識」とは区別します。理性的認識とか約束事としての有効な認識というものは物事の外観について教えてくれますが現象の究極の性質(空性、固有の存在の欠如)についておしえてくれるのは「究極の認識」だけです。
瞑想が善意や慈悲のような基本的特質を私たちの心の中に伸ばそうとつとめるとき、理性の働きは経験と結びつき、日常生活で憎しみの及ぼす有害な結果や忍耐心のもたらす恩恵について私たちの目をひらいてくれるのです。こうして自覚がすすむにつれ、次々と現れる想念の流れが次第に変わってきます。
愛や忍耐心が肯定的な精神状態であるのは定義上とか神の定めとかではなく、それが私たちの幸福と他者の幸福の真の原因であるからです。
仏教ではこういう約束事としての有効な認識(理性的認識)と「究極の認識」とは区別します。理性的認識とか約束事としての有効な認識というものは物事の外観について教えてくれますが現象の究極の性質(空性、固有の存在の欠如)についておしえてくれるのは「究極の認識」だけです。
瞑想が善意や慈悲のような基本的特質を私たちの心の中に伸ばそうとつとめるとき、理性の働きは経験と結びつき、日常生活で憎しみの及ぼす有害な結果や忍耐心のもたらす恩恵について私たちの目をひらいてくれるのです。こうして自覚がすすむにつれ、次々と現れる想念の流れが次第に変わってきます。
愛や忍耐心が肯定的な精神状態であるのは定義上とか神の定めとかではなく、それが私たちの幸福と他者の幸福の真の原因であるからです。