「長谷先生からは授法の後おいとまするときに「これを写しなさい」といって求聞持次第の写本を手渡されたのですが、それはその日に先生から伝授していただいた行法のシナリオだったのです。この写本の見返しには「阿波太龍寺所用次第也」とありました。
阿波大龍寺は「三教指帰」の序文に空海さんが求聞持の修行をした場所としてあげられており、その求聞持堂は厳島の弥山の求聞持堂とともに今日も行者が絶えないときいております。長谷先生は一八八五年(明治十八年)数え年の十七才のときに、弥山の求聞持堂で求聞持法を五十日勤められたということですが、わたくしに貸してくださったシナリオが、弥山のではなくて太龍寺のだったのは太龍寺のシナリオの方ができがよいと思われたからなのでしょうか。
それはともかくわたくしは長谷先生からお借りしたシナリオを写す作業を通してちゃんと加行をすませ、得度をすませた、いわばプロの真言僧に伝授される求聞持法の姿をあらまし思いえがくことができるようになりました。しかしわたくしは、我流を貫いたまま軍隊に入ってしまったのです。(続)
阿波大龍寺は「三教指帰」の序文に空海さんが求聞持の修行をした場所としてあげられており、その求聞持堂は厳島の弥山の求聞持堂とともに今日も行者が絶えないときいております。長谷先生は一八八五年(明治十八年)数え年の十七才のときに、弥山の求聞持堂で求聞持法を五十日勤められたということですが、わたくしに貸してくださったシナリオが、弥山のではなくて太龍寺のだったのは太龍寺のシナリオの方ができがよいと思われたからなのでしょうか。
それはともかくわたくしは長谷先生からお借りしたシナリオを写す作業を通してちゃんと加行をすませ、得度をすませた、いわばプロの真言僧に伝授される求聞持法の姿をあらまし思いえがくことができるようになりました。しかしわたくしは、我流を貫いたまま軍隊に入ってしまったのです。(続)