福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

角田さんの第9回江戸三十三観音・東京十社巡拝の記録1/6

2016-01-25 | 開催報告/巡礼記録


1、 新年おめでとうございます。今年も、福聚講にとって、講員の皆さんはもとより、講の活動を応援してくださる皆様にとって、希望溢れる、力に満ちた、発展の年になりますように神さま・仏さまにお祈りし、心掛けて参りましよう。そして、神さま・仏さまが納得されます様な一年を過ごしましょう。
新春、ことし第一回目の福聚講(高原耕昇講元)の巡拝行活動である第9回江戸三十三観音・東京十社巡拝行を行いました。1月17日(日)午前10時、東京メトロ地下鉄日比谷線・神谷町駅に集合。この日は、参加者8人(婦人2人)で、皆、元気良く出発します。やはり、お正月ですので、いつもの月とは、気分が違うようです。今年、最初の巡拝行とあって、皆、言わず語らずのうちにも、気合がみなぎっている表情が印象的でした。この調子で、 本年も、宜しくお願いいたします。

第一番参詣所 江戸札所第20番 光明山 和合院 天徳寺(東京都港区虎ノ門3-13-6) 本尊 聖観世音菩薩 宗派 浄土宗
同寺は、江戸時代には、江戸浄土宗四箇寺の一つで、寺格は高く、徳川将軍家のお抱え寺でもあつたので、愛宕山西側一帯を寺領とする大寺院であったようです。天文2年(1533年)増上寺7世親譽周仰上人の弟子である縁譽称念上人が、開創、始め、紅葉山にあリましたが、天正13年(1585年)桜田霞ヶ関に移り、天正18年(1590年)徳川家康が、江戸城を拡張するため、慶長16年(1611年)、現在の地に、替地を賜り、移住しました。
天文23年(1554年)本尊に阿弥陀如来を、請来して、安置したことから、武蔵・上総・下総の三国に、阿弥陀如来の光明が遍く照らし、この奇瑞を、知恩院26世徳譽上人が、奏聞して、光明山天徳寺の勅額を賜り、紫衣の綸旨を下せられました。元和元年(1615年)家康公から、50石のご朱印と下馬札を建てられ、さらに、元和9年(1623年)、二代秀忠公から、100万石のご朱印を下賜され、五代綱吉公からは、常紫衣寺として、奏請されました。こうして、同寺は、徳川将軍家を始め、越前・出雲松平家など、数十藩主の菩提寺として、幕末まで続きました。安政6年、樺太・北蝦夷国境問題で、ロシア政府の使節・ムラビエフとの交渉議定の会所にもなりました。
この日は、お正月の寒い日ではありましたが、さいわい好天に恵まれ、青空も広がる、小春日和を思わせる、絶好の巡拝日和でした。地下鉄の駅から、地上に出ると、すぐ近くに、天徳寺がありました。門前の左側に「西之窪観音」と
刻まれた黒ずんだ石標が立つています。境内は、広く、沢山の樹木に覆われていました。庭も手入れが行き届き、仮本堂手前の庭の足元には、何方か、趣味のセンスのいい方が、作られた、盆栽風に水仙と紫、黄緑色の葉牡丹を並べ、麦わらで編ん杉木立を立て、周囲を縄で囲んだミニチアの花飾りが置いてあり、心が安らかになる思いがしたものです。お寺なのですが、戦前の民家のような家屋造りの本堂玄関。入口は、障子の格子戸です。懐かしい、障子の格子戸を空けると、「どうぞ」といって、女性の方が、奥座敷に招きいれていただきました。どうやら、ここは、「仮本堂」のようでした。私たちで一杯になる座敷に、正座して、ご本尊 聖観世音菩薩に、今年一番の、ご法楽をお捧げしました。ごく、質素なご仏壇は、豪華絢爛な、祭壇もさることながら、私たちに、馴染み深く、親しく、身近に心を寄せる思いがして、読誦する心が、そのまま、仏さまに届く思いがしたものです。
境内に下りると、西側奥に二層八角、黒い屋根瓦に、白壁が映える堂宇があります。正面に「天徳寺」と揮毫された扁額が、掲げられてあり、屋根の頂点には、口をあけて威嚇している鬼瓦が載っていました。ここが、同寺の本堂です。
話によりますと、この天徳寺は、元和年間から、明和、安永、嘉永、明治と5回の火災に遭っていて、さらに、大正年間には、関東大震災によって、堂宇を焼失。火災で焼失した堂宇をその都度再建、そのあと、再び、火災に遭うなど、不遇とそれを再建する負けじ魂の相克を絵にしたような過酷な災難の歴史の連続だったといいます。その、関東大震災の直後に立てた堂宇が、仮本堂であるといいます。
ここには、「板碑」という、石の卒塔婆があります。鎌倉時代から、室町時代にかけて死者供養の為に、造られたそうです。「弥陀種子板碑」として、文化財になっています。板状の石の上部に、仏・菩薩を現す梵字を、下部には、菩薩の像や供養する人の氏名などを刻んでいます。板碑は、緑泥片岩(秩父青石)が素材で、高さ68センチ、幅29センチ、頭部を山形に作り、その下に、二段の切り込みをいれ身部の幅は同等で,身部上部に、蓮華座上に梵字「キリク」(阿弥陀仏)を異字体で著し、下半には、「永仁6年7月(1298年)の銘が刻まれています。鎌倉時代の造立刻銘を持つ種子版碑の典型であり、希少な存在であるといわれています。
歩きながら講元とお話ししました。「お蔭はあります。きっと、お蔭はあります。」神さまと仏さまの無限の力を信じて、一生懸命に、お祈り、お願いすれば「必ず、神さま、仏さまは、"お蔭"をくださいます。聞き届けてくださいます。講員のある方に早速大変有難いお蔭が現れました。・・・」新年早々、力強い励ましの言葉を、高原講元様から戴きます。嬉しいことです。有り難いことです。感謝です。しかし、高原講元様は、私の数万倍の求聞持法や遍路行、書経の研鑽に努めておられる。だから、沢山の「お蔭」を戴いておられる。私などは、せいぜい、こうした講の巡拝行や、日々の、僅かな時間で、神さまや仏さまの前で、読経・祈祷するのと、これも、高原講元様から,教えて頂いた「マイ遍路巡礼」を、一日、二時間かけて行っている程度のことでは、到底、比較にならない。「お蔭」の出方も当然違うのだろうな。と自分の信心の未熟さ加減に、仕方がないなと、慎まざるを得ないのが、実情なのです。そして、祈願を懸けながら、いつも、私からのお願いばかりで申し訳ないな。お願いするばかりでなく、わたしも、神さま、仏さまに、人助けのお手伝いをしなければイケナイノデハナカロウカ。と痛感することもしばしばです。自分の都合のいいことばかりお願いするのだけではいけない。お手伝いをすることも必要だ。何を、どうしたらいいのだろう。この、小さな人間が?衆生無辺誓願度。と教えられていますが。複雑な気持ちで一杯です。
ともあれ、高原講元様の、自信に満ちた「お蔭」の“お告げ”を直接、面と向って、お聞きできることは、わたしの、心の支えとなり、励ましを戴く思いがするのです。
年の始めに当たって、私の脆弱な精神に「痛棒」を打ち込まれるような、お言葉でした。乾坤一擲突き進むしかありません。たとえ「お蔭」が期待できなくともです.。
「御詠歌 おぼろ夜の そらあきらけき 寺の内 心にかかる 雲とてもなし 」

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