福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

角田さんの第9回江戸三十三観音・東京十社巡拝の記録2/6

2016-01-26 | 開催報告/巡礼記録
2、天徳院を出て、長い木塀に沿って歩き、長い円形のコンクリートトンネルを渡たり、大本山総持寺出張所,総コンクリートの豪勢な寺構えの青松寺を過ぎ、途中、この界隈を代表する、森財閥の森ビル群が、流麗な形をした数十階建ての高層ビルが聳え立っています。さすが、この地域は、徳川家が所領していたところであるので、周囲は、落ち着いた品のある、風情が感じられる町並みがあるところです。歩くこと、20分。この日、第2番参詣所である、芝大神宮に着きました。
第二番参詣所 芝大神宮(芝明神さま)(東京都港区芝大門一丁目12番7号)
主祭神 天照皇大御神(内宮)
豊受大明神(外宮)の二柱を祀る。
社格 旧府社 准勅祭社 東京十社
別名 芝明神宮 飯倉神明宮 関東のお伊勢様
芝大神宮は、平安時代の寛弘2年(1005年)、伊勢の内外両宮を勧請して、創建、日向国鵜戸郡から、鵜戸石・剣を、神宝として運び込み、奉納したといいます。源頼朝は、元歴元年(1185年)、神領を寄進、その後、中世には、建武4年(1337年)足利尊氏の実弟直義が、戦捷祈願を行った。天正18年(1590年)豊臣秀吉も奥州平定の際、戦捷祈願をしたほか、徳川家康は、武蔵国日比谷郷に社領15石を寄進しました。慶長3年(1598年)増上寺が、当神社の旧鎮座地に移転することになったため現在地(芝大門)へ、奉遷しました。以後、芝大神宮は、徳川将軍家や幕府の加護を受け、社殿の造営や修復は、幕命で執行されました。
芝大神宮は、増上寺が隣接しているため、江戸時代に入ってからは、参詣者が激増したといわれます。また、江戸時代には、お伊勢参りが盛んになりましたが、伊勢神宮への参拝には、多額な旅費や、長期間の滞在費用など、経済的負担も大きく、江戸庶民は、容易に参詣が出来ませんでした。このため、芝大神宮では、庶民のために、江戸で、伊勢神宮の代わりとして、伊勢神宮の祭神を祀つて、参詣が出来るようにしました。こうして、芝大神宮は、参詣者が激増したため、それを当て込んで、参道に、沢山の出店が出来ました。大勢の参詣客で大賑わいしたといいます。
明治元年(1868年)10月、明治天皇、東幸の際、本社を内侍所として、小休し、同年11月(1868年),准勅祭社に指定されましたが、明治3年(1869年)准勅祭社制度の廃止に伴い、東京府の府社になりました。明治9年(1876年)火災により社殿焼失、大正12年(1923年)関東大震災、昭和20年(1945年)8月、東京大空襲で、社殿など主要建造物は、悉く灰儘に帰しました。戦後は、神社本庁に参加して、昭和22年(1947年)、本殿再建、同39年(1964年)、本殿祭造営が、完成。平成17年(2005年)9月の例祭では、鎮座1000年を祝う、芝大明神壱千年祭を斉行し、現在のような景観になったといいます。
斯うした、歴史が古く、徳川家の支援を受けてきた恵まれた神社であるため、年間の催し物や、お守りなど種類が豊富にあります。
(1)芝明神のだらだら祭り。9月11日から、21日までの期間で、日本一長いお祭りです。敬老祭を行い77歳(喜寿)以上の人の長寿富貴を願い、巫女舞いを奉納します。
(2)生姜市。昔、当宮鎮座当時は、周囲が生姜畑でしたので、生姜を神前に供え、参拝者にも売られました。風邪を引かないという効能があります。
(3)め組の喧嘩。江戸時代、境内には、相撲、芝居小屋などの見世物がかかり、庶民の憩いの場として親しまれてきました。鳶頭と相撲取りとのトラブルは、「め組の喧嘩」として有名。歌舞伎「神明恵和合取組」として上演されています。自然に半鐘が鳴ったのがもとで喧嘩になったとして三宅島に流されてしまった半鐘は、大祭期間中に展示されています。(4)「千木筥」藤ずるで編んだ器に餅を盛った餅器を略して千木。千木とは、神殿の屋根の両端に交差した長い二本の木です。千木が、千着に通ずるというので、女性が衣服の増えるのを祈る習慣もあります。
(5)力石。江戸時代後期には、興行として、力持ちが活躍するようになり、50貫余の力石持ち上げる、剛力者がいたそうです。
(6)貯金塚。日本の貯金王と称された牧野元次郎(1874~1942)を追慕し1957年、関係者が建立。牧野は、東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業し、成田銀行設立時に、支配人として招かれ、1900年、不動貯蓄銀行を設立、ニコニコ貯金という貯金方法を普及させ、庶民金融第一主義を貫きました。碑文には、武者小路実篤筆の「根気根気 何事も根気」と刻されています。
(7)百度石。当宮の石段を登りきった所に、百度石があります。霊験あらたかなものとして、古くから多くの信仰者がお百度参りをしています。お百度参りは、7回、21回と回を重ねてゆくうちに段々と心が、休まり、願い事も叶うことでしょう。心願成就御百度お詣りの一組100枚番号入りの木札が用意されているそうです。(芝大神宮パンフレットより)
歴史の重さと格式の高さを誇るだけあって、この芝大神宮は、入口の階段の幅の広さに驚かされます。とにかく広い。大きな鳥居にも、感嘆あるのみです。恐らく、昔は、公家、大名達が、騎乗馬で,轡を並べて、この階段を上がり下がりしたことでしょう。階段を上がって、境内に出ると、真正面に、神殿が控えています。神域にふさわしく堂々とした神殿です。ここでは、講員各自が、めいめい、般若心経秘鍵をお唱えしました。
神社を参拝して不思議に思うことなのですが、神社では、先ず、鳥居をくぐって神域に入ります。ここから既に、心の動きが変わるのでしょうか。どうやら、お寺に入った時の心の動きとは、いささか、微妙に異なっているような感じがするのです。私の場合は、何より、心が「清くなる」思いがするのです。「清く」と「穢れ」がはっきりしていて、心が澄み、「清く」なる。「清い」心を持って、神様の前で、神様の言うことを一生懸命に聞く。また、「澄んだ心」で、神さまに、お願い事をする。感覚的な微妙な違いなのですが、神社とお寺とでは、同じ一つの心でも、動き方が違うようです。また、神社の境内や、参道に並び立つ杉の大木を見ても、神社の場合は、杉の木立の中に、神さまの霊、神霊が宿っていて、ただの木ではない感じがします。杉の木の中に、神の霊が宿っていて、500年も1000年も、時空を超えて、今なお、聳え立っている。霊樹というか霊木というか、お寺の杉木とは、異なる感じ方をするものです。馥郁とした「いのち」の尊さを感じます。
今、高原講元様は、神仏習合、神仏一体の信仰ということを主張されておられます。私は、その通りであると思います。私の子供の頃を思い出すと、昔の民家は、ラビットハウスと阿諛される規模の家でしたが、必ず神棚と仏壇が備え付けられていたものです。神棚には、いつも、新鮮な榊の葉をお供えしていたものです。仏壇には、仏花とお線香をつけていました。なんの矛盾もなく並存共存していました。祖母が、毎朝、毎夕、神棚と仏壇に向って、手を合わせ拝がんでいました。また、飯炊きは薪を使う竈をつかっていたので竈の安全を守もつて戴く竈の神さまのお札が柱に貼り付けてありました。三つ子の魂百まで、といいますが、斯うした環境の小さな体験が、今なお、私の心身の中で、生きているのでしょうか。日本人の持っているDNAなのでしょう。
ともあれ、神社の神さまと、お寺のお仏さまに、祈願が出来ることは、ありがたく、嬉しいことです。

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