田辺元は第2次大戦争中から時局に対する自己の無力を「懺悔道」と題して京大で講義しはじめました。そして戦後すぐそれは「懺悔道としての哲学」として発表されました。しかしこの親鸞聖人に触発され聖徳太子に帰れという『懺悔』の考えは戦後の日本人に定着することなく今日の事態をむかえています。『震災後』が『戦後』とともに重大な意味をもってきている今日、岩波文庫「懺悔道としての哲学」から今日への指針として抜き書きしていきます。
「懺悔道としての哲学」
「私にとって懺悔の道は哲学の道であり、哲学の歩む道は懺悔の道に外なりません。・・私の懺悔にては自己は自己の存在を要求する資格を持たぬものとしての要求を放棄する。そこにスピノザの懺悔と相通ずる所があるも、しかしスピノザにては無力の無力の懺悔と云うが、未だ真に懺悔に徹したものといふことはできない。私の懺悔にては、自己は自己の存在を要求する資格を放棄することによって、かえって自己の存在を自己ならぬものから受け取る、すなわち無力が能力に転ぜしめられるのである。故に私の懺悔は・・・無力の徹底が有力に転ぜしめられる、あるいは自己の放棄がかえって自己の存在をあたえられるという転換を意味することに注意していただきたい。・・・
懺悔道という言葉を外国語で表すとき日本語では表現し得ない意味内容が現れる、・・・physikとmetaphysikとの関係の如くにmetanoetikは理観たるnoetikをこえてそれを成立せしめる超理観の学と云う意味を示すとすれば、この超理観の学を行道と申したい。西洋哲学を通ずる立場はnoetikであると言えば仏教はそれに対しmetanoetikとして行道の立場である。懺悔道がmetanoetikとして表される時、それが行道、すなわち懺悔を行ずる行道という真の意味を示すのである。わたしは理観に対する行道がてつがくの道であり、それは懺悔の働きであると申したい。まず以上のことを懺悔及び懺悔道の概念の説明として申しあげておきます。・・
「懺悔道としての哲学」
「私にとって懺悔の道は哲学の道であり、哲学の歩む道は懺悔の道に外なりません。・・私の懺悔にては自己は自己の存在を要求する資格を持たぬものとしての要求を放棄する。そこにスピノザの懺悔と相通ずる所があるも、しかしスピノザにては無力の無力の懺悔と云うが、未だ真に懺悔に徹したものといふことはできない。私の懺悔にては、自己は自己の存在を要求する資格を放棄することによって、かえって自己の存在を自己ならぬものから受け取る、すなわち無力が能力に転ぜしめられるのである。故に私の懺悔は・・・無力の徹底が有力に転ぜしめられる、あるいは自己の放棄がかえって自己の存在をあたえられるという転換を意味することに注意していただきたい。・・・
懺悔道という言葉を外国語で表すとき日本語では表現し得ない意味内容が現れる、・・・physikとmetaphysikとの関係の如くにmetanoetikは理観たるnoetikをこえてそれを成立せしめる超理観の学と云う意味を示すとすれば、この超理観の学を行道と申したい。西洋哲学を通ずる立場はnoetikであると言えば仏教はそれに対しmetanoetikとして行道の立場である。懺悔道がmetanoetikとして表される時、それが行道、すなわち懺悔を行ずる行道という真の意味を示すのである。わたしは理観に対する行道がてつがくの道であり、それは懺悔の働きであると申したい。まず以上のことを懺悔及び懺悔道の概念の説明として申しあげておきます。・・