福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

本日の定例会模様

2016-06-18 | 開催報告/巡礼記録
今日は護国寺は御開帳の日でもありおおくの参拝者でにぎわっていました。特に最近、一言地蔵様や大師堂のお参りが増えてきた感じがします。寺でも案内板を設置したりしているのはそのためでしょう。本堂でも多くの方がひっきりなしに上がってお参りしていました。
初夏の薫風が吹き抜け、御開帳を告げる五色の旗がひらめく中、講元はいつものように2時過ぎから、本堂・一言地蔵様・大師堂・大日如来様・お薬師様等を七度お参りしました。
途中、大日如来様の前にたむろしていた若者達が「ここの仏様はただ『よろしくお願いします』と拝んでも難しいしいような気がする・・・願いが少しでも成就したときのお礼はどうすればいいのかなあ・・・」などと話しているのを聞き、最近の若者は中高年よりもなかなか信仰心が上質であるような気がしました。
講は本日は七名の参加で、いつものように観音経全巻、般若心経、諸真言等をあげました。講員以外にも多くの参拝者が最初から最後まで一緒にすわってお参りしてくださいました。有難い事でした。

その後、ゴミ拾いをし門前の喫茶店で雑談の時を過ごしました。そのとき様々な話題が出ましたがその中の一つに、大乗非佛説についての質問がありました。
以下にその時のやり取りの補完版を載せておきます。

Q、お経はお釈迦さまのお説きになったものではないという説がありますが、これは仏教の根底がひっくりかえる説では?

A,現在、大乗非仏説論を学問的意味を有するとして主張する学者はほとんど無いようです。現在の仏教学では大乗非仏説論をことさら取り上げることはしません。学問的には論ずるのが無意味だとされるようです。江戸時代に冨永仲基が大乗非佛説をとなえたときは各宗派に衝撃を与えたといわれますが、それは当時はほとんどの経典は歴史上の『お釈迦様』ひとりのおとなえになったものによるという大前提に立っていたためです。
しかし大乗仏教では、『法』を覚したはすべて仏陀であり、釈尊は仏陀の一人であるとします。お釈迦様御自身も「法灯明」といわれています。「『法』をよりどころとせよ」と最初からおっしゃっています。更に大乗起信論では大乗(覚り)とは衆生の心であるとまで主張しています。密教では金剛界曼荼羅の成身会に賢劫の千仏が描かれていますが、これは過去現在未来の三世にわたる無数の佛を現わしています。つまり仏様は過去だけでなく現在も未来も無数にいらっしゃり「法」も過去現在未来永劫に説かれ続けているということを表わしているのです。また、大日経や金剛頂經などははじめから大日如来の所説とされ、さらに法身としての大日如来は時間を超えて過去現在未来、常に説法されているとされます。最初からお釈迦様の所説が密教経典であるとはしてないのです。
このように見ていくと経典を歴史上のお釈迦様おひとりがお説きなったものかどうかということは意味がありません。「法」が修行者の上にあらわれてその都度、経典になっていったということが大切なことなのです

因みに、「パーリ仏典」がお釈迦様のお言葉を伝えていると主張されることがあるようですが、お釈様の言語は中部インドの「中期マガダ語」であったと推定され、西インド系統のパーリ語ではないようです。また成立時期も紀元前後といわれ漢訳よりも新しいものもあるようです。従って文献学上は原始経典さえも釈迦の言説が明確に記録されているとは言えないとされているようです。

 要は宗教を文献学で論じても無意味だということです。無数の人々が営々として大小乗経典を伝えてきたその求道心・衆生済度の燃えるような願いが一番貴重だと思います。
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