さきに八回目に
「ここに一の沙門あり、余に虚空蔵聞持の法を呈す。
その経に説かく「もし人、法によりてこの真言一百万遍を誦さば、即ち一切の教法の文義暗記することを得」と。ここに大聖(仏陀)の誠言を信じて飛焔を鐟燧(サンスイ)に望む。阿国大滝嶽にのぼりよぢ、土州室戸崎に勤念す。谷、響を惜しまず。明星来影す。遂にすなわち朝市の栄華念念に之を厭ひ、巌藪の煙霞日夕にこれをねがふ。軽肥流水をみては電幻のなげき忽ちに起こり、支離懸鶉(しいりけんじゅん:不具の人や貧者)をみては因果の哀しみ休せず。目に触れて我を勧む。だれかよく風を係がむ。」
と三経指帰を引用しましたがよく巷間、求聞持は記憶力増強のために行うのであるといわれます。しかしこれは間違いです。
お大師様も「もし人、法によりてこの真言一百万遍を誦さば、即ち一切の教法の文義暗記することを得」かいておられるというのですがさらにこのお大師様の文を読みすすむと「支離懸鶉(しいりけんじゅん:不具の人や貧者)をみては因果の哀しみ休せず。目に触れて我を勧む。だれかよく風を係がむ。」とあるのです。
すなわちお大師様はもともとすでに大学を去るときに衆生の苦悩を救ってやりたいという火のような菩提心をもっておられその一方法として「教法の文義暗記」もあったとかんがえるべきでしょう。求聞持行も当然この燃えるような衆生済度のお心がその動機であったとかんがえるのです。
実際に行じてみると行の次第は「教法の文義暗記」などのようなことを中心に構成されているとは感じられませんし、むしろ相当高い志をもたなければ行に耐えられず、成満できないことが分かります。私のような愚根の者ですら単に「記憶力を増したい」などという動機では成満はおぼつかないと行中に感じたのです。
「ここに一の沙門あり、余に虚空蔵聞持の法を呈す。
その経に説かく「もし人、法によりてこの真言一百万遍を誦さば、即ち一切の教法の文義暗記することを得」と。ここに大聖(仏陀)の誠言を信じて飛焔を鐟燧(サンスイ)に望む。阿国大滝嶽にのぼりよぢ、土州室戸崎に勤念す。谷、響を惜しまず。明星来影す。遂にすなわち朝市の栄華念念に之を厭ひ、巌藪の煙霞日夕にこれをねがふ。軽肥流水をみては電幻のなげき忽ちに起こり、支離懸鶉(しいりけんじゅん:不具の人や貧者)をみては因果の哀しみ休せず。目に触れて我を勧む。だれかよく風を係がむ。」
と三経指帰を引用しましたがよく巷間、求聞持は記憶力増強のために行うのであるといわれます。しかしこれは間違いです。
お大師様も「もし人、法によりてこの真言一百万遍を誦さば、即ち一切の教法の文義暗記することを得」かいておられるというのですがさらにこのお大師様の文を読みすすむと「支離懸鶉(しいりけんじゅん:不具の人や貧者)をみては因果の哀しみ休せず。目に触れて我を勧む。だれかよく風を係がむ。」とあるのです。
すなわちお大師様はもともとすでに大学を去るときに衆生の苦悩を救ってやりたいという火のような菩提心をもっておられその一方法として「教法の文義暗記」もあったとかんがえるべきでしょう。求聞持行も当然この燃えるような衆生済度のお心がその動機であったとかんがえるのです。
実際に行じてみると行の次第は「教法の文義暗記」などのようなことを中心に構成されているとは感じられませんし、むしろ相当高い志をもたなければ行に耐えられず、成満できないことが分かります。私のような愚根の者ですら単に「記憶力を増したい」などという動機では成満はおぼつかないと行中に感じたのです。