昨日中塚さんが、「一言地蔵様にお供えするとそれが返ってくる」と投稿されておりました。非常に感銘を受けましたが、これは、「(不貪欲戒の)廻向」の原理でしょう。
1、明治の傑僧・釈雲照師は「仏教大原理」の不貪欲戒のところで、次のように述べられています。
「・・知足不貪欲戒・・・貪瞋痴は心の業である。これを制することができれば功徳著しいものがある。学道の目的はこの心が正邪・曲直を判別できるようにすることにある。この戒の止善は、五感に触れる五塵六欲・男女資材等はみな虚妄無常であって泡沫幻影の朝霧のごとくであると達観して求めないこと。行善(積極的な善)は己が財に執着をはなれて専ら慈悲不貪の心を培養し、力に随いて布施をし、又他人の財施・慈善を讃嘆随喜すること。」とあります。お供えをするのも「十善戒の不貪欲戒の積極的な善行」です。
2、次にこれが還ってくるということは「廻向」との原理と思われます。「廻向」とは「自分の修めた善行の結果が他に向って回らされて所期の期待を満足することをいう。善行の報いは本来自分に還るはずだが、大乗仏教においては一切皆空であるから、報いを他に転回することが可能となる。善行の結果を人々のためになるよう期待し、それを果すのを「衆生回向」といい、善行の結果を仏果の完成に期待するならば、それを果すことは仏道への回向である。いわば、自分自身の積み重ねた善根功徳を相手にふりむけて与えることを回向という。(ウキペヂア)」とあります。今回の場合は自分に返ってきたことになりますが、本来宇宙は「空」であり、心・佛・衆生一体であり自他の区別もないので、自分の善行も仏様へ届くとともに自分に還ってきても不思議はないということでしょう。
3,又、「六種供養」といい、仏様に 閼伽・塗香・華・焼香・飲食・灯明を御祖前することを言う場合があります。これらは順番に六波羅蜜、すなわち、布施・持戒・忍辱・精進・禅定
・智慧をあらわします。すなわち花は「忍辱」をあらわしているとなります。
4、また、三宝供養という面からいえば「仏を供養する者は大福徳を得、・・法を供養する者は智慧を増長し、・・・僧を供養するものは無量の福徳資根を増長し・・」(大方広不思議境界経)とあります。この場合、お地蔵さまという仏様を供養しているのですから「仏を供養する者は大福徳を得・・」ということになります。