顕教の実相観より密教の実相観へ転入する歴程は金剛頂経にも大日経にも開説せられてある。即ち如来往昔なほ菩薩として無上菩提を欣求し、苦修久しきに亙り、つひに無我性空の理に住するとき、無量の諸仏妙相を示現し、警覚開示して、性空の理(万有の本性は空であるということ)はこれ如来真実究竟の果境にあらざればこの性空観よりさらに起って無上真実の佛果を求むべきことを告げらる。
ここにおいて性空の理も無自性と観じ、この性空の理にも執滞せざるとき、微細妄執(浄菩提心が光がわずかに発したときに取り除かれる麁なる煩悩を初劫といい、菩提心の光がさらに開明をするに至って除かれる細な妄執を第二劫という。その菩提心があまねく法界を照らすとき除かれる微細な妄執を極細妄執という)たる根本無明除滅し、無上大菩提を現証し、如来究竟の果位を成就し給うたのである。
この性空観に住するとき、諸仏の警覚開示を蒙り、自心の極無自性を観じ、自我を超越し、主客能所の微細の妄惑を除滅するところに、如来果境の門扉開かれ、無上の佛地に転入する経意により、弘法大師は十住心の中の第八九十の三ヶの住心(第八住心、一道無為心 - 森羅万象は真理そのものと観、従来の教えを一道に帰する法華・天台の境地。第九住心、極無自性心 - 一切が対立を越え重々無尽に重なりあっているとする華厳の境地。第十住心、秘密荘厳心 - 一切は曼荼羅の世界とする文字言語を超えた密教の境地)を開説せり。
即ち顕教大乗の実相観たる性空の理に安住するは第八住心にして、諸仏の警覚に依り性空観より起って究竟の佛果に転入する中間を第九住心とし,自心の極無自性を観じ対立的自我を超越するところに、本初の具体的真我を獲得し、如実に我の絶対的自覚に達したる境地を第十住心とす。
弘法大師は十住心論に第十住心を釈して曰く「秘密荘厳心とは即ち是れ究竟じて自心の源底を覚知し、実の如く自身の数量を証悟す。所謂る胎蔵海会の曼荼羅と、金剛界曼荼羅と、金剛頂十八会曼荼羅是也。云々」
(秘密荘厳心とは、すなわちこれをつきつめていえば、自らの心の奥底を覚知し、ありのままに自身の数量を証悟するのである。いわゆる胎蔵曼荼羅と金剛会曼荼羅とが本当の心身である。このように、秘密荘厳心は曼荼羅として表現されるものである。)
ここにおいて性空の理も無自性と観じ、この性空の理にも執滞せざるとき、微細妄執(浄菩提心が光がわずかに発したときに取り除かれる麁なる煩悩を初劫といい、菩提心の光がさらに開明をするに至って除かれる細な妄執を第二劫という。その菩提心があまねく法界を照らすとき除かれる微細な妄執を極細妄執という)たる根本無明除滅し、無上大菩提を現証し、如来究竟の果位を成就し給うたのである。
この性空観に住するとき、諸仏の警覚開示を蒙り、自心の極無自性を観じ、自我を超越し、主客能所の微細の妄惑を除滅するところに、如来果境の門扉開かれ、無上の佛地に転入する経意により、弘法大師は十住心の中の第八九十の三ヶの住心(第八住心、一道無為心 - 森羅万象は真理そのものと観、従来の教えを一道に帰する法華・天台の境地。第九住心、極無自性心 - 一切が対立を越え重々無尽に重なりあっているとする華厳の境地。第十住心、秘密荘厳心 - 一切は曼荼羅の世界とする文字言語を超えた密教の境地)を開説せり。
即ち顕教大乗の実相観たる性空の理に安住するは第八住心にして、諸仏の警覚に依り性空観より起って究竟の佛果に転入する中間を第九住心とし,自心の極無自性を観じ対立的自我を超越するところに、本初の具体的真我を獲得し、如実に我の絶対的自覚に達したる境地を第十住心とす。
弘法大師は十住心論に第十住心を釈して曰く「秘密荘厳心とは即ち是れ究竟じて自心の源底を覚知し、実の如く自身の数量を証悟す。所謂る胎蔵海会の曼荼羅と、金剛界曼荼羅と、金剛頂十八会曼荼羅是也。云々」
(秘密荘厳心とは、すなわちこれをつきつめていえば、自らの心の奥底を覚知し、ありのままに自身の数量を証悟するのである。いわゆる胎蔵曼荼羅と金剛会曼荼羅とが本当の心身である。このように、秘密荘厳心は曼荼羅として表現されるものである。)