性空観によって因縁生相対の自我を超越するとき、阿字本初の絶対不思議の真我が開顕せらるるのである。成仏とはこの真我の自性を如実に体得せられたる位である。
大師は[窮竟して自心の源底を覚知し、實の如く自身の数量を証悟す(秘密曼荼羅十住心論)]と釈せられたるが、如実に身心の本性を覚悟すとは、これ思議の身心に即して不思議絶対の身心を体得することである。如実に自我の本初を体悟することである。凡身に即して如来金剛の身を体することである。
随って身心といふもこれ身心対立の身心でなく、法界周編的全一の身心である。大日経には如来の身語意は皆実際妙極の境に至るが故に三密平等なりと釈し、また如来の身語意は平等にして身量虚空に等同なり、語意の量も亦是の如しといへり。されば身心と云うふも不二一如の身心にして、身と云ふも身相を離れたる法界全一の身である。心と云ふも心相を離れたる法界全一の心である。窮竟していへばただこれ法界全一の具体的自我を如実に体悟せるを、無上大覚を現証せる窮竟成仏の位となす。
自心の本性に達すれば法界の衆生の本性に達し、如来の妙心に通じ、所謂三平等(衆生の身口意と仏の身口意が一致すること)の大覚位を成するにいたるのである。
かく法界の自性に達し、宇宙の精神に同化し、悠久なる天地の心に参するとき、世界の一草一木にも宇宙的全一の生命を認め、個別に対して全体を観じ、個人に対して真の人格を認めらるるのである。即ち一切の個別体はその当相を動ぜず(そのままで)、一切を統一せる絶対体にして、各々その自性の法界三昧を実現しつつある、永久の創造体なることを知らるるのである。
即ち如来自証の境より一切を見るとき、一切衆生は生死輪廻の迷子にあらず、佛子なり、菩薩なり、金剛子なり、如来の功徳を示現しつつある曼荼羅の聖者なり、従果向因の人たるべきである。
大師は大日経開題に「上、大日尊より下、六道の衆生の相にいたるまで、各々の威儀に住して種々の色相を顕わす。並びに是れ大日尊の差別智印なり。更に他身にあらず。故に経文に云う『我れ即ち法界、我れ即ち金剛身、即ち天竜八部等』云々」或はまた大日経疏に「心王毘盧遮那。成自然覺。爾時一切心數。無不即入金剛界中。成如來内證功徳差別智印。云々」或はまた十住心論(巻一)に「若し能く蜜号名字を明察し、深く荘厳秘蔵を開くときは則ち地獄・天堂・佛性・闡提、菩提・生死・涅槃、辺邪・中正・空有・偏圓、二乗・一乗、皆是れ自心佛の名字なり。焉をか捨て焉をか取らん。(然りと雖も、秘号を知る者は猶し麟角の如く、自心に迷える者は既に牛毛に似たり。)」(若し能く真言陀羅尼を明察し、秘密の真理の扉を開くことが出来るならば、地獄も極楽も、仏も悪人も、覚りも迷いも解脱も、かたよれるも正しきも、空も有も、歪めるも完きも、浅き教えも深き教えも、総ては自分の心の姿の言い換えに過ぎないのである。いずれかを捨ていずれかを取るというものではない。ただこのことを真に知る者は極めて少なく、自分の心に迷うものは甚だ多い。)
此れ等は皆上述の秘義を開演せられたるものである。
大師は[窮竟して自心の源底を覚知し、實の如く自身の数量を証悟す(秘密曼荼羅十住心論)]と釈せられたるが、如実に身心の本性を覚悟すとは、これ思議の身心に即して不思議絶対の身心を体得することである。如実に自我の本初を体悟することである。凡身に即して如来金剛の身を体することである。
随って身心といふもこれ身心対立の身心でなく、法界周編的全一の身心である。大日経には如来の身語意は皆実際妙極の境に至るが故に三密平等なりと釈し、また如来の身語意は平等にして身量虚空に等同なり、語意の量も亦是の如しといへり。されば身心と云うふも不二一如の身心にして、身と云ふも身相を離れたる法界全一の身である。心と云ふも心相を離れたる法界全一の心である。窮竟していへばただこれ法界全一の具体的自我を如実に体悟せるを、無上大覚を現証せる窮竟成仏の位となす。
自心の本性に達すれば法界の衆生の本性に達し、如来の妙心に通じ、所謂三平等(衆生の身口意と仏の身口意が一致すること)の大覚位を成するにいたるのである。
かく法界の自性に達し、宇宙の精神に同化し、悠久なる天地の心に参するとき、世界の一草一木にも宇宙的全一の生命を認め、個別に対して全体を観じ、個人に対して真の人格を認めらるるのである。即ち一切の個別体はその当相を動ぜず(そのままで)、一切を統一せる絶対体にして、各々その自性の法界三昧を実現しつつある、永久の創造体なることを知らるるのである。
即ち如来自証の境より一切を見るとき、一切衆生は生死輪廻の迷子にあらず、佛子なり、菩薩なり、金剛子なり、如来の功徳を示現しつつある曼荼羅の聖者なり、従果向因の人たるべきである。
大師は大日経開題に「上、大日尊より下、六道の衆生の相にいたるまで、各々の威儀に住して種々の色相を顕わす。並びに是れ大日尊の差別智印なり。更に他身にあらず。故に経文に云う『我れ即ち法界、我れ即ち金剛身、即ち天竜八部等』云々」或はまた大日経疏に「心王毘盧遮那。成自然覺。爾時一切心數。無不即入金剛界中。成如來内證功徳差別智印。云々」或はまた十住心論(巻一)に「若し能く蜜号名字を明察し、深く荘厳秘蔵を開くときは則ち地獄・天堂・佛性・闡提、菩提・生死・涅槃、辺邪・中正・空有・偏圓、二乗・一乗、皆是れ自心佛の名字なり。焉をか捨て焉をか取らん。(然りと雖も、秘号を知る者は猶し麟角の如く、自心に迷える者は既に牛毛に似たり。)」(若し能く真言陀羅尼を明察し、秘密の真理の扉を開くことが出来るならば、地獄も極楽も、仏も悪人も、覚りも迷いも解脱も、かたよれるも正しきも、空も有も、歪めるも完きも、浅き教えも深き教えも、総ては自分の心の姿の言い換えに過ぎないのである。いずれかを捨ていずれかを取るというものではない。ただこのことを真に知る者は極めて少なく、自分の心に迷うものは甚だ多い。)
此れ等は皆上述の秘義を開演せられたるものである。