17年の遍路では73番出釈迦寺下の遍路宿から奥の院の「捨身が岳禅定」を目指しました。当日は満月でしたが道が何本もあって迷っていると、昨日の寺族の方の話の通り一団の人々が突然暗い中からあらわれました。こんな朝早く普段着で歩いているので地元の人とわかります。お願いして一緒にのぼりました。とりとめも無い話をしながら登りましたが話すうちに非常にさわやかな気持ちになりました。何故かわかりませんが同質の魂の人たちだと感じました。よく死後は魂の似た人のグループにはいるといわれますが月明かりの中で類似の体験をしたような気がします。
我拝師山参道には多くの碑があります。 与謝野晶子が善通寺にきたとき詠んだ「讃岐路は浄土めきたり秋の日の五岳の奥におつることさへ」を刻んだ石碑もありました。
鎌倉時代の高野山の高僧 道範上人の句
「鷲の山 つねにすむなる夜半の月 きたりて照らす峯にぞありける」もありました。 西行法師が我拝師山参道で休んだときの「西行腰掛石」もあります。
途中には柳の水という湧水があり、1回目は地元の人が汲んで飲ませてくれました。大変甘くておいしい水でした。甘露水とはこういう水をいうのでしょう。ここは、江戸の初期、大阪のある豪商の娘様が病にかかり、回復の見込みなしと宣告されたところへ、旅僧がきて、「お大師様が生まれた有難い場所の湧き水であるから、これで薬を飲むように」と水をわたして去ったが、その水で薬を飲むと、不思議なことに娘様の病気はたちまち快癒た。後に御礼参りをと、四国を回っっているときのこの柳の水がその時の水と同じ味がしたのでこの水とわかり、天明4年1775年、この時の豪商の多額の寄進により捨身嶽本堂の再建が成され、現在に至っているということです。
捨身が岳禅定本堂は400Mの標高にもかかわらず、なんなくたどり着くことができました。
鐘もあり地元の人は次々に衝きます。以前満濃池の駅で先祖が捨身が岳禅定の鐘をワイヤーで引っ張り挙げたという人にあったことを思い出し心して撞きました。修行の山にふさわしい澄んだカーンという音色でした。
2回目の遍路では本堂の中にあがれましたが 1回目は朝早かったので奥の院本堂の縁に座して薄暗い照明のなか理趣経をあげました。
本堂の裏には洞窟があり、捨身をされた御年7歳といわれる小さな稚児大師様が祀られていました。
山頂からみると満月に照らされた里の風景は御伽噺の絵本のようでした。今でもこの不思議な光景ははっきりと思い出します。2回目のときは鎖をつたってうえまでのぼれました。さすがにぞっとする岩場です。こういうところにおさない大師がのぼられたというのはなみたいていのことではありません。
17世紀真念の「四國徧禮道指南」には「七十三、出釈迦寺 少山上 堂有 東向 まよひぬる 六道衆生すくはんと たつとき山に 出る釈迦寺 外に虚空蔵尊います。此の寺札所打つところ十八町山上に有。然りともいはれ有りて堂社なしに近年ふもとに堂幷寺をたつ 爰にて札をおさむ・・」とあります。江戸時代は山上が正式の札所だったのでしょう。