(前回の安楽集について)こは曇鸞大師の往生論註の釈を安楽集に引用せるものにして、文義深奥なるも、要は大乗仏教は因縁生法畢竟無生寂滅の理を明かすが故に、浄土往生の義も、此土の生を捨して、彼土に更に實生の生を得すと云ふ意にあらず、浄土の生とは法性清浄、無生一味の体を得することである。
しかるを彼岸に個体の實生あるが如く説けるは、これ凡夫の情執み準じたるものである。即ち氷上に火を燃し、火燃んならば氷解け、つひに火の滅するが如く、浄土は無生界なるが故に、無生界に至るとき、個体實生の迷見の火自ら滅し、一如無生の体に帰する意を釈せしものである。
即ち浄土門に往生すとは、個体我の無生法性の生を得せしを云ふ。されば浄土門にても、解脱の真境に個体の存在を認めざることを知らるるのである。
しかして諸法実相の玄旨を宣暢し、生死に即して涅槃を得するは大乗の正意なり、しかるを此土を遮して、彼岸を欣求する浄土の説は大乗の正旨に違せざるやの疑難について、智者大師の浄土十疑論等に会釈あるを見るも、真言密教にては、浄土門の如く、此土を無常如幻、罪障深重の境として、ひたすら彼岸の浄土を欣求し、個体の無生法性界に融消する往生の義を説くが如きは、これ因人の情熱を遮遺するを宗とする遮情教にして未だ如来自証の表徳果界の真際を開顕せざるものとなす。
しかるを彼岸に個体の實生あるが如く説けるは、これ凡夫の情執み準じたるものである。即ち氷上に火を燃し、火燃んならば氷解け、つひに火の滅するが如く、浄土は無生界なるが故に、無生界に至るとき、個体實生の迷見の火自ら滅し、一如無生の体に帰する意を釈せしものである。
即ち浄土門に往生すとは、個体我の無生法性の生を得せしを云ふ。されば浄土門にても、解脱の真境に個体の存在を認めざることを知らるるのである。
しかして諸法実相の玄旨を宣暢し、生死に即して涅槃を得するは大乗の正意なり、しかるを此土を遮して、彼岸を欣求する浄土の説は大乗の正旨に違せざるやの疑難について、智者大師の浄土十疑論等に会釈あるを見るも、真言密教にては、浄土門の如く、此土を無常如幻、罪障深重の境として、ひたすら彼岸の浄土を欣求し、個体の無生法性界に融消する往生の義を説くが如きは、これ因人の情熱を遮遺するを宗とする遮情教にして未だ如来自証の表徳果界の真際を開顕せざるものとなす。