福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

幸田露伴『努力論』その4

2013-10-04 | 法話
自己の革新

歳といふものは何處に首が有り尾が有るといふ可き筈の者では無いが、古俳人の所謂「定め無き世の定め哉」であつて、おのづからにして人間には大晦日も有れば元日も有り、終に大晦日は尾の如く、元日は首かしらの如く思はるゝに至つて居るので有る。扨そこで既に頭が有り尾が有るといふことになると、歳の尾たる大晦日には一年の總勘定を行つて見、歳の首には將來の計畫をも行やつて見たくなるのが人の常情で有る。歳末の感慨やら、年頭の希望やらは、此の人情からして生じて來るので、誰しも然樣さう自分の思つたやうに物事の運べて居るものは鮮すくないのであるから、歳末には日月の逝き易くして、流水奔馬の如くなるを今更ながら感歎し、そして又宿志の嗟歎として所思の成就せざるを恨み歎くのが常で有り、それから又年首には、屠蘇の盃を手にし、雑煮の膳に對むかふに及んで、今年こそはと自ら祝福して、前途に十二分の希望と計畫とを懸けて、奮然として振ふのが常で有るのである。歳に首かしらがあり尾が有るべき理は無いなどと、愚にも付かぬ理窟などを考へて居るものは一人だつて有りは仕ない。大抵の人は歳末には感慨嗟歎し、年頭には奮起祝福するのが常で有る。實に人情自然、然樣有るべき理なので有る、當然なので有る。大人小人、俊傑平凡の別無く、蓋し皆然樣いふ感情を懷くので有るから、即ちそれは正當の感情なのである。
是の如き感情の發動が正當で有るとすれば、吾人は其の歳末の嗟歎をば本年度に於ては除き去り、そして其の年頭の希望をば本年度に於ては實現したいと考ふることが、第二に起つて來るところの意思であつて、其の意思は本より正當にして、且美なる意思なのである。
有體を云へば、誰しも皆毎年々々に是の如き感情を懷き、是の如き意思を起し、そして又毎年々々嗟歎したり、發憤したりして居るのである。で、脚の立場を動かして、暫らく自己といふものに同情せぬ自己になつて客觀して見れば、年々歳々假定的の歳末年頭に於て、某甲なにがしなる一の拙き俳優が同じやうな筋書によつて、同じやうな思入れを、同じやうな舞臺の、同じやうな状態の、同じやうな機會に於て演じて居るのに過ぎぬのを認めない譯には行かないから、笑ひ出し度くもなり、馬鹿々々しいといふやうな考も起らずには居ない。が、併し此の考は自己に取つては決して良い考では無くつて、如何に達觀して悟さとつたやうな事を思つたからとて、そんなら明日から世外の人となれるかと云ふに、然樣さうはなれぬといふのなら、矢張り正直に筋書に從つて、同じ感慨、同じ希望、同じ思入れを爲した方が宜いのである。すると、努力すべきは、たゞ來るべき歳末又は年頭に於ては、今迄とは些し違つた役廻りを受取つて、少しは氣※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)を吐き、溜飮を下げるやうなことを演ぜんとして、其の注文の通り貫けるやうにとすべき一事である。即ち某甲なにがしといふ自己を『新』にすべきのみなのである。例に依つて例の如き某甲では宜いけないから、例の某甲よりは優れた某甲に自己を改造すべきよりほかに正當な道は無いのである。
けれども其は知れ切つた事である。誰も皆『新しい自己』を造りたい爲に腐心して居るので有るが、其の新しい自己が造れぬので、歳末年頭の嗟歎や祝福を繰返すのである。と、いふ評言ことばは其處此處から出るに相違無い。如何にも自他共に實際は然樣さうで有らう。併し新しい自己が造れぬと定まつて居るのでは無いから、多くの人が新しい自己を造らんとして努力しても造れぬからと云つて、都すべての人が新しい自己を造り得ぬとは限らぬ。イヤ爲す有る人が隨分去年の自己と異なつた今年の自己を造り、或は一昨年の自己と違つた今年の自己を造つて、年末の嗟歎の代りに凱歌を擧げて、竊に歡呼の聲を洩して居るのも世の中には少からず有らう。して見れば若し新しい好い自己を造り得なかつたとあれば、其は新しい好い自己を造り得ない道理が有つてでは無くて、新しい好い自己を造るに適しない事を爲して歳月を送つたからだと云つて宜しいのである。即ち新しい自己を造るべき道を考へて之を實行することが粗漏で有つたために、新しい自己が造れなかつたといふ事は明らかなので有る。
同じ貨幣は同じ時に於ては同じ價値を有する道理で有る。若しも去年や一昨年と同一の自己で有るならば、自己が受取るべき運命も同一なるべき筈で有る。即ち新しい自己が造り成されぬ以上は、新しい運命が獲得される譯は無い。同一の自己は同一の状態を繰り返すだらう。そして其樣な事を幾度と無く繰り返す中に、時計のゼンマイは漸く弛んで、其の人の活力は漸く少くなり、終に幸福を得ざるのみならず、幸福を得べき豫想さへ爲し能はざるに至つて仕舞ふのであらう。で有るから大悟して幸不幸を雙忘して仕舞ひ得れば兎も角も、普通の處から立論すれば、在來年々に不滿足を感じて、嗟歎したり祝福したりして居るやうなものならば、是非共振ひ立つて自己を新あらたにして、そして新なる運命の下に新しい境遇を迎へねばならぬので有る。で、それなれば何樣どうして自己を新にしようかといふのが、是當面の緊急問題である。
此の問題は一つ勘査して見たい問題で有る。第一何によつて自己を新あらたにしたもので有らうか、といふ事が先決せられねばならぬ。即ち自己によつて自己を新にするか、他によつて自己を新にするか、といふ事で有る。こゝに自然の一塊石が有ると假定する。此の一塊石は或形状或性質を有して長い年月の間同一の運命を繰返して居たものとする。此の石に新しい運命を得させようとするには、此の石を新にすれば自ら成立つので有る。即ち他力を以て、或は其の凸凹を有用的にし、或は其の表面を裝飾的にすれば、其の石は建築用、或は器財用として用ひらるゝに至るので有らう。此は他によつて自己を新にして、そして自ら新しい運命を致したのである。又こゝに一醫學生が有つて、數年開業試驗に應じて、數年間同一の運命を繰返して居たものとする。此の醫學生が一朝にして同じ貨幣は同じ價値を有するものだといふことを悟り、發憤勉勵して、研鑚甚だ力めた末に試驗及第して開業するを得たものとすれば、それは自己によつて自己を新にしたので有る。
此の例のやうに、自己を新あらたにするにも、他によるのと、自らするのとの二ツの道が有る。他力を仰いで、自己の運命をも、自己其物をも新にした人も、決して世に少くは無い。立派な人や、賢い人や、勢力者や、黽勉家や、それらの他人に身を寄せ心を託して、そして其の人の一部分のやうになつて、其の人の爲に働くのは、即ち自己のために働くのと同じで有ると感じて居て、其の人と共に發達し、進歩して行き、詰り其の人の運命の分前を取つて自己も前路を得て行くといふのも世間に在ることで有つて、決して慚づ可き事でも厭ふ可きことでも無い。矢張やツぱり一の立派な事なのである。往々世に見える例で有るが、然程さほど能力の有つた人とも見え無かつた人が、或他の人に隨身して數年を經たかと思ふ中に、意外に其の人が能力の有る人になつて頭角を出して來る、といふのが有る。で近づいて其の人を觀ると既に舊阿蒙では無くて、其の人物も實際に價値を増して居つて、目下の好運を負うて居るのも成程不思議は無い、と思はれるやうになつて居るのがある。其は即ち其の初め、或人に身を寄せた時からして、他ひとによつて新しい自己を造り出し始めたので、そして新しい自己が出來上つた頃、新しい運命を獲得したのである。此の他力によつて新しい自己を造るといふ道の最も重要な點は、自分は自分の身を寄せて居るところの人の一部分同樣であるといふ感じを常に存する事なので有つて、決して自己の生賢なまさかしい智慧やなんぞを出したり、自己の爲に小利益を私しせんとする意を起したりなんぞしてはならぬのである。
他人によつて自己を新あらたになさうとしたらば、昨日の自己は捨てて仕舞はねばならぬのである。他人によつて新しい自己を造らうと思ひながら、矢張り自己は昨日の自己同樣の感情や習慣を保存して、内々一家の見識なぞを立てて居たいと思ふならば、それは當面の矛盾であるからして、何等の益を生じないばかりで無く、卻つて相互に無益の煩勞を起す基である。それほど自己に執着して居る位に、自己を好い物に思つて居るならば、他人に寄る事も要らないから自己で獨立して居て、そして在來の自己通りの状態や運命を持續して、自ら可なりとして居るが宜いのである。新しい自己を造る要も無いやうなものである。樹であるならば撓めることも出來るが、化石で有つては撓めることは出來ない。化石的自己を有して居る人も世には少く無い。若し化石的自己を有して居る人ならば、他力を頼んでも他力の益を蒙る事は蓋し少いで有らう。藤であるならば竹に交つても眞直にはなるまいが、蓬であるならば麻に交れば直すぐになる。世には蓬的よもぎてき自己じこを有して居る人も少くは無い、若し蓬的自己を有して居る人ならば、自己を沒卻して仕舞つて、自己より卓絶した人、即ち自己が然樣さう有り度いと望むやうな人に隨從して、其の人の立派な運命の圈中に於て自己の運命を見出すのも、見苦しい事では無いのみならず、合理的な賢良な事である。古來の良臣といふのには蓋し此の類の人が有るので有らう。これは他力によつて自己を新あらたにする方の談はなしである。
他力によつて自己を新あらたにするのには、何より先に自己を他力の中に沒卻しなければならぬのである。丁度淨土門の信者が他力本願に頼る以上は憖じ小才覺や、えせ物識ものしりを棄てて仕舞はねばならぬやうなものである。併し世には又何樣どうしても自己を沒卻することの出來ぬ人もある。然樣さういふ人は自ら新しい自己を造らんと努力せねばならぬのである。他力に頼るのは易行道いぎやうだうであつて、此は頗る難行道なんぎやうだうである。何故難行道で有るかと云ふに、今までの自己が宜しくないから、新しい自己を造らうといふのであるのに、其造らうといふものが矢張り自己なので有るからである。之を罵り嘲つて見るならば、恰も自己の脚の力によつて自己を空中に騰らしめんとするが如きもので有つて、殆ど不可能であると云ひたい。であるから成程世間の多數の人が毎年々々嗟歎したり祝福したりして、新しい自己を造らうと思ひ※(「(屮/師のへん+辛)/子」、第4水準2-5-90)たちながら、新しい自己を造り得ないで、又年々歳々同じ事を繰り返す譯である。けれども一轉語を下して見ようならば、『自己ならずして抑※(二の字点、1-2-22)誰が某甲なにがしを新にせんや』で有る。
眞實の事を云へば、我流で碁が強くなる事は甚だ望の少い事で、卓絶した棊客に頼つて學んだ方が速に上達すると同じく、世間で自力のみで新しい自己を造つて年々歳々に進歩して行く人は非常に少く、矢張り他力に頼つて、そして進歩して行く人の方が多いので有る。が、自ら新しい自己を造らんとすることは實に高尚偉大な事業で有つて、假令たとひ其の結果は甚だ振はざるにせよ、男らしい立派な仕事たるを失はぬのである。況んや百川ひやくせん海うみを學んで海うみに至るであるからして、其の志さへ失はないで、一蹶しても二躓しても、三顛四倒しても、起上り/\して敢て進んだならば、鈍駑も奮迅すれば豈寸進無からんやである。であるからして、必らずや一年は一年に、一月は一月に、好處に到達するに疑は無いのである。自ら新にするといふことは、換言すれば詰り個々の理想を實現せんとする努力であるから、豈其の人の爲とのみ云はんやで、然樣さういふ貴い努力が積累ねらるればこそ世が進歩するのであるから、實に世間全體に取つても甚だ尚ぶべく嘉よみす可き事なのである。みづから新しくせんとする人が少くなれば、國は老境に入つたのである。現状に滿足するといふ事は、進歩の杜絶といふ事を意味する。現状に不滿で、未來に懸望して、そして自ら新にせんとするの意志が強烈で有れば、即ちそれが其の人の生命の存する所以なのである。他力に頼つて自己を新あらたにしようとするにしても、信といふものは自己に由つて存するのであるから、即ち他力に頼る中に、自力の働が有る。自力に依つて自己を新にせんとするにしても、自照の智慧は實に外圍からの賜物で有るから、自力に依る中に他力の働が有る。自力他力と云つて、強ひて嚴正には差別する事も難い位のものである。併し他力に頼る上は自己を沒卻するので有るから、舟に乘り車に乘つたやうなもので、大に易い氣味が有るが、自ら新あらたにせんとする以上は、自家の手脚を以て把握し歩行しなければならぬのだから、當面に直に考量作爲を要するので有るが、扨何樣どうしたらば自ら新にする事が出來よう。
假定するのでは無い、蓋し大抵の人の實際が斯樣なので有る。「某甲なにがし當年何十何歳、自ら顧みるに從來の自己は自己の豫期したりし所に負そむくこと大にして、而して今日に及べり、既往は是非に及ばず、今後は奮つて自ら新にし、自己をして善美のものたらしめ、從つて自己の目的希望をして遂げしめ、福徳圓滿、自己の理想境に到達するを期せん。」といふやうな事を思つて居るのが普通善良の人の懸直無しの所で、此より下つた人は自ら新にするの工夫も爲さず、運命だけが新規上等のものになつて現前せんことを望んで居る位のもので有らうから、其は論ずるに足らぬとして擱いて、其なら差當り何樣して自ら新しい自己を造らうとしたら宜いかが喫緊な研究問題なのである。そして其の着手着意の處を知り得て過たずに、實作實效の境に處し得て錯あやまらざらんことを人も我も欲するのである。
自ら新にする第一の工夫は、新にせねばならぬと信ずるところの舊いものを一刀の下に斬つて捨てて、よげつを存せしめざることである。雜草が今まで茂つてのみ居た圃はたけを、これではならぬから新に良好な菜蔬を仕立てようとする場合であれば、それは即ち矢張り敢て新にするので有つて、若し其の地が新にされ了れば、多少はあれ菜蔬が出來る時が來て、即ち從來とは異つた運命が獲得される譯なのである。然れば其は雜草を棄てて菜蔬にせねばならぬと信ずるのであるから、第一に先づ新にせねばならぬ舊いもの、即ち雜草を根きり葉きり、耘くさぎり去つて仕舞はねばならぬものである。舊いものは敵である。自分の地に生じて居たものでも、何でも古いものは敵である。雜草を耘り去つて仕舞はねば、新しく菜蔬は播き付けられぬのである。そこで此の道理に照らせば自然分明であるが、今までの自分の心術でも行爲でも、苟も自ら新にせんと思ふ以上は、其の新にせねばならぬと信ずるところの舊いものを、大刀一揮で、英斷を振つて斫り倒して仕舞はねばならぬものである。例へば今まで做し來つたところの事は、習慣でも思想でも何でも一寸棄て難いものであるが、今までの何某なにがしで無い何某にならうといふ以上は、今までの習慣でも思想でも何でも惡い舊いものは總べて棄てなければならぬ。併し然樣さうなると未練や何ぞが出て棄てられぬものである。妙な辯護説などを妙なところから考へ出して棄てぬものである。だが、古い齒を拔き去ることに於て遲疑しては、新しい齒の爲にならぬ、草莱を去らねば嘉禾は出來ぬのである。去年の自己は自己の敵であると位に考へねばならぬのである。何を斬つて棄てなければならぬかは人々によつて異なつて居るだらうが、人々皆自ら能く知つて居るだらう。
具象的に語れば斯樣で有る。從來不健康で有つた人ならば、不健康は一切の不妙の事の因もとで有るから、自ら新あらたにして健康體にならねばならぬと思ふのである。さて然樣さう思うたらば、自己の肉體に對する從來の自己の扱ひ方を一應糾して見て、先づ其の弊の顯著なる箇條を斬つて棄てて斥けて仕舞はねばならぬ。そして其の點に於て努力して新にせねばならぬ。例を擧げよう。從來貪食家で胃病勝であつたらば、貪食といふ事を斬つて棄てねばならぬ、節食せねばならぬ。貪食の爲に辯護して、貪食でも運動を多くしたら宜からうなぞと云ふのは宜く無い。雜草を拔かずとも肥料をさへ多く與へたら菜蔬が生長する餘地は有るだらう、といふやうな理窟は、理窟としては或を成立つで有らうけれども、要するに中正の説では無い。從來と同樣な身的行爲を保つて居れば、從來と同樣な身的状態を得るのは當然の事である。從來と異なつた身的状態を得度いとならば、從來做し來つた身的行爲を讎的のやうにして斬つて棄てて仕舞ふが宜い。從來と反對な結果が得たくば、從來と反對な原因を播くが宜い。貪食を爲しては胃病を患ひ、藥力を假りて病を癒しては、復また貪食して病みつゝ、永く自己の胃弱を歎じて恨むが如き人も世には甚だ少くは無い。昨日の自己をさへ斬つて棄てれば、明日の自己に胃病は無いのである。貪食と健胃劑とは雜草同士の搦み合なのである。二者共に耘くさぎり去つて仕舞へば、健康體の精力は自然と得られるのである。胃病を歎じて居る人々を觀るに、多くは貪食家か、亂食家か、間食家か、大酒家か、異食家か、呆坐家で、そして自己の眞の病原たる惡習慣に對して賢く辯護することは、雜草を拔かずとも雜草が吸收するよりは猶多くの肥料を與へたら菜蔬の生育に差支は無からうと云ふやうな理論家に酷肖して居るのである。苟も自ら新にせんとするものは昨日の自己に媚びてはならぬのである。一刀の下に賊を斬つて仕舞はねばならぬのである。何をするにも差當つて健康は保ち得るやうにせねば、一切瓦解する虞が有るから、從來が不健康なら發憤して賊を馘きるのが何より大切だ。親讓りで體質の弱い人は實に氣の毒で有るが、それでもすべて從來做し來つた事で惡いと認めた事はずん/\と斬り棄てて行つたら、終に或は從來に異なつた健康體となり得ぬとも限らぬのである。再び言ふ。新しくせねばならぬと思ふところの舊いものは、未練氣なく斥けて仕舞はねばならぬのである。
不健康の人が衞生に苦勞する餘り、アレコレ云つて下らないことに齷齪として居るのは抑も間違切つた談はなしで、齒磨、石鹸の瑣事まで神經を惱まして居たり、玩弄物のやうな、若くは間食が變形した樣な藥などを、嘗めたり噛つたりして居るが如き事に心を使つて居るのは、それが先づ第一に非衞生的の頂上で、それよりも酒を廢すとか、煙草を廢すとか、不規則生活を改めるとかした方が、何程早く健康を招き致すか知れたものでは無い。若し從來不健康の爲に甚だしく不利を蒙つて居ると思ふ人が有つたなら、是非共其の人は自ら新にして健康を招致せねばならぬのだが、扨眞誠に自ら新にしようと思つたなら、昨日までの自己の身體取扱方を斷然と改めねばならぬのである。今日以後も昨日以前同樣の取扱方を吾が身に加へて居て、而して明日からは往日と異なつた結果を得ようといふ其樣そんな得手勝手な注文は成り立つ道理が無い。胃病に就いて云へば、若し間食家だつたなら間食を斬つて棄てるがよい。大酒家だつたなら徳利と絶交するがよい。亂食家だつたならムラ食を改めるがよい。異食家だつたなら奇異なものを食はぬがよい。呆坐家だつたら、座蒲團を棄てて仕舞つて、火鉢を打碎いて、戸外に運動する習慣を得るが宜い。湯茶を無暗に飮む習慣が有つたなら、急須や茶碗を抛り出して仕舞ふが好い。喫煙家だつたら煙草を棄てて仕舞ふが宜い。自己の生活状態を新にすれば自己の身體状態は必らず變易せずには居ない。激變を與へるのだから、身心共に樂では無いに相違無いが、これが出來ぬなら矢張永久に、昨年の如く、一昨年の如く、一昨々年の如く、同じ胃病に惱んで青い顏をして居るが宜いので、そして胃病宗の歸依者となつて、遂に胃病の爲めに獻身的生涯を送るが宜いのだから、歎息して不足などを云はぬが宜いのである。右が嫌なら左に行け、左が嫌なら右に行けである。良醫の判斷に從ひ、自己の生活状態を新にして、それで胃病が治ちせぬなら、それは既に活力が消耗してゐる證據で有るから致方は無いが、大抵の人は活力消耗して病癒ゆる能はざる場合に立つて居るのでは無くて、自己の生活状態を新にせぬが爲に、即ち昨日までの自己身體取扱方に未練を殘して居る爲に、矢張り昨日通りの運命に付き纒はれて苦んで居るので有る。例に依つて例の如き舊い運命に生捕られたくないならば、舊い状態を改むるに若くは無いのである。
胃病のみでは無い。粗食を常にして諸病に犯され易い薄弱體を有して苦んで居る人も有る。刺激物を取り過ぎて、心舍いへに安んぜざる悵悸懼の状に捉へられて困つて居る人も有る。夜業を廢さないで眼を病んで弱つて居るものも有る。最も甚しい愚なのに至つては、唐辛たうがらしを嗜食して痔に苦んで居るなどと云ふ滑稽なのも有る。生活に逐はれて坐業をのみ執り居る爲に、運動不足で、筋肉弛緩を致し、所謂羸弱になつて悄然としてゐる、同情すべきものもある。父母の爲に惡體質を賦與されて、其が原因で常に藥餌と親む可き状を有してゐる、最も悲むべきものも有る。が、要するに從來の自己に不滿を感ずるならば、從來の自己状態を改めて仕舞ふのが宜いので有る。ところが昨日の自己も矢張り可愛いもので有つて、「酒は我が身體を惡くし居るな」とは知りつゝも「酒を棄てる事は出來無い」なんぞと云ふのが人の常で有る。兎角に理窟を付けて昨日の自己を保護辯護しつゝ、扨其の結果だけは昨日より好いものを得たいと望むのが人情で有るから、恕すべきでは有るが、それを恕するとすれば、數理上矢張り自己は新にならぬのであるから何にもならない。是非英斷を施さねばならぬのである、身體が弱くては一切不幸の根が斷れず、一切幸福の泉が涸れ勝であるから、苟も自ら新にしようと思つたならば、痛苦を忍んで不健康を致す昨日の自己の舊い惡習と戰つて之に克ち、之を滅し、之を殲つくして仕舞はねばならぬのである。
併し身體が弱くても事が成せぬのでは無い。身が弱くても意が強ければ、一日の身あれば一日の事は成せるので有る。が若し身體を弱くする原因が何で有るかを知悉しながらも、之を改むることが出來ぬやうに意が弱くて、そして身が弱くては、氣の毒ながら其人は自ら新にする事が出來難いのであつて、從來通りの状態を超脱する事は出來ぬのである。それではならぬ。宜しく發憤して自ら新にすべしである。
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