
朝5時ころ出てまず近くの伊予小松駅の両側にある一宮と宝寿寺にお参りします。
62番札所 宝寿寺(本尊十一面観音)は一宮の別当寺でした。宝寿寺の御詠歌も「さみだれの あとに出でたる 玉の井は 白坪なるや 一の宮川」となっています。真念「四国徧禮道指南」には「六十二番一宮・・本尊十一面観音」とあり、文政八年の「神社仏閣順拝帳」では「六十二番霊判 伊豫國一宮大明神 別当寶壽寺」とあります。四国八十八所ホームページによると「・・縁起によると、天平のころ聖武天皇(在位724〜49)は諸国に一の宮を造営した。その折、伊予の一の宮神社が建立され、大和の僧・道慈律師(〜744四)が勅命をうけて法楽所としての別当寺を創建したのがはじめとされる。このとき天皇は『金光明最勝王経』を奉納され、寺名は「金剛宝寺」と称して、現在地ではなく中山川下流の白坪という地(今より500メートル北)にあったと伝えられる。弘法大師がこの地方を訪ねたのは大同年間(806〜10)で、寺に久しく留まり聖武天皇の妃である光明皇后の姿をかたどった十一面観世音菩薩像を彫造した。これを本尊とし、寺名を「宝寿寺」と改めて霊場とされた。そのころ国司の越智公夫人が難産で苦しんでいた。大師が本尊に祈願した霊水・玉の井で加持したところ、無事出産したことから安産の観音様としても信仰されたという。ただ、中山川のたび重なる洪水の被害を受け、天養2年(1145)に堂宇を再建し、山号も「天養山」と改めている。以後、大山祇神社(祭神大山積神)の別当寺として栄えた・・。」とあります。
その後宝寿寺は秀吉の四国征伐の兵火で焼失し、寛永13年(1536)新屋敷(伊予小松駅の北側、現・一之宮神社境内)に移転再興されました。その後さらに白坪の一宮大明神の社を現社地に遷座したとされます。この白坪の一宮大明神は伊豫国一宮の大三島の大山祇神社の分霊を勧請して「一宮」と称したと考えられます。たしかにこの一宮神社の社殿には「御祭神、大山積の大神・大国主の大神・事代主の大神」と書かれています。
なかなか複雑な寺社歴ですがいま一宮も宝寿寺もともに寂れています。
宝寿寺は霊場会を脱退して、納経時間も短縮しており、一宮も遍路はお参りしません。しかし再度昔の霊場として宝寿寺と一宮が62番霊場として合体するとまた大いに興隆するチャンスでもあると思いました。