続史愚抄 / 正平十七年(1362)/貞治元年五月十七日条
「十七日 京畿大地震 北朝 入道尊道親王(注1)をして五壇法(注2)を土御門殿(注3)に修し 之を祈禳せしめらる」(注4)
(注1) 入道尊道親王は南北朝から室町時代。後伏見天皇の第11皇子。出家して青蓮院にはいる。貞和三年以来通算24年間天台座主をつとめた。
(注2) 五壇法、①息災・増益・調伏の為に五大明王の壇を連ねて一度に禁中・公家に於いて修するものと、②大法として大壇・護摩壇・十二天壇・聖天壇・神供壇の五壇法とがある。この場合は①か。
(注3)京都土御門大路の南、京極の西にあり、しばしば里内裏となった。
(注4)
正平16年6月24日に正平地震が起こっている。『太平記』などに記される大地震(南海トラフの巨大地震と推定されている)。
太平記卷第三十六
大地震竝夏雪事
同年の六月十八日の巳刻より同十月に至るまで、大地をびたゝ敷動て、日々夜々に止時なし。山は崩て谷を埋み、海は傾て陸地に成しかば、神社佛閣倒れ破れ、牛馬人民の死傷する事、幾千萬と云數を不知。都て山川・江河・林野・村落此災に不合云所なし。中にも阿波の雪の湊と云浦には、俄に太山の如なる潮漲來て、在家一千七百餘宇、悉く引鹽に連て海底に沈しかば、家々に所有の僧俗・男女、牛馬・鷄犬、一も不殘底の藻屑と成にけり。是をこそ希代の不思議と見る處に、同六月二十二日、俄に天掻曇雪降て、氷寒の甚き事冬至の前後の如し。酒を飮て身を暖め火を燒爐を圍む人は、自寒を防ぐ便りもあり、山路の樵夫、野徑の旅人、牧馬、林鹿悉氷に被閉雪に臥て、凍へ死る者數を不知。
七月二十四日には、攝津國難波浦の澳數百町、半時許乾あがりて、無量の魚共沙の上に吻ける程に、傍の浦の海人共、網を卷釣を捨て、我劣じと拾ける處に、又俄に如大山なる潮滿來て、漫々たる海に成にければ、數百人の海人共、獨も生きて歸は無りけり。又阿波鳴戸俄潮去て陸と成る。髙く峙たる岩の上に、筒のまはり二十尋許なる大皷の、銀のびやうを打て、面には巴をかき、臺には八龍を拏はせたるが顯出たり。暫は見人是を懼て不近付。三四日を經て後、近き傍の浦人共數百人集て見るに、筒は石にて面をば水牛の皮にてぞ張たりける。尋常の撥にて打たば鳴じとて、大なる鐘木を拵て、大鐘を撞樣につきたりける。此大皷天に響き地を動して、三時許ぞ鳴たりける。山崩て谷に答へ、潮涌て天に漲りければ、數百人の浦人共、只今大地の底へ引入らるゝ心地して、肝魂も身に不副、倒るゝ共なく走共なく四角八方へぞ逃散ける。其後よりは彌近付人無りければ、天にや上りけん、又海中へや入けん、潮は如元滿て、大皷は不見成にけり。
又八月二十四日の大地震に、雨荒く降り風烈く吹て、虚空暫掻くれて見へけるが、難波浦の澳より、大龍二浮出て、天王寺の金堂の中へ入ると見けるが、雲の中に鏑矢鳴響て、戈の光四方にひらめきて、大龍と四天と戰ふ體にぞ見へたりける。二の龍去る時、又大地震く動て、金堂微塵に碎にけり。され共四天は少しも損ぜさせ給はず。是は何樣聖德太子御安置の佛舍利、此堂に御坐ば、龍王是を取奉らんとするを、佛法護持の四天王、惜ませ給けるかと覺へたり。洛中邊土には、傾ぬ塔の九輪もなく、熊野參詣の道には、地の裂ぬ所も無りけり。舊記の載る所、開闢以來斯る不思議なければ、此上に又何樣なる世の亂や出來らんずらんと、懼恐れぬ人は更になし。