観音經功徳鈔 天台沙門 慧心(源信)…13/27
十三、 盗人発心の事。眼清といふ佛師の事。丹波ゆるたの観音の事。摩藤迦女の事。
昔大唐に法道といふ者山に居す。あるとき盗人来て衣裳をうばひとるなり。剰へ此の事を人に告やせんとてこの法道を木に縛り付けてをき、ゆみを引て箭をはなさんとするに箭がとりついてはなれず。又別のやをはむるもとり付いてはなれず。このとき盗人のいふやうは、法道はいかなる子細ありやと問ければ、法道答ていふやうは、唱ふるものとては観音の名号なり。さらに別の子細なし、といふ。盗人ありがたきことと思ひ則ち発心して法道が前にて髪をきり出家して観音を信ずる也。日本の法華傳に見へたり。
昔京に眼せいといふ仏師あり。をよそ毘首羯磨にもをとらぬ上手なり。此の仏師毎日観音經を三十巻つ゛つ読誦するなり。あるとき丹波の國に官成と云人あり、此の仏師を呼び下して観音を一躰三十日の間に作りいたせと申さるるなり。其の如くつくりいだすなり。官成過分に作料引手ものをいたして上せたり。而るに官成よくよく思へば料足等のをしきゆへにとりかへさんと思ひ丹波の大江山のすそに待ちて佛師のかへる處を打ち殺して料足等を取り返して家にかへるなり。そののちきけば此の佛師は相違なく京に居て佛をつくるといふなり。宮成これをきひて不思議に思ひ持仏堂へゆいてみれば我が造らせたる観音に多くの疵あり。ことに脇よりうみしるいずるなり。これはなに事ぞといふに、此の佛師毎日観音經三十巻つ゛つよむゆへなり。官成此のとき、道心を発して出家して我が家を寺にして菩提寺と名をつけて此の観音を本尊に安置するなり、これを丹波の穴太の観音といふなり。(今昔物語に「丹波国の郡司、観音像を造るの語」にもでてくる。今の西國二十一番札所 穴太寺のこと)盗人に付いて事理の不同あり。常の盗人は事の盗人なり。さて我等の如くのもの、いたずらに居て法界のものを受用し費やすは理の盗人なり。
観心のときは怨賊は我等が心内にあるなり。心内の怨賊をよくよく用心して観音を念じ奉るべきこと、尤肝要なり云々。或外書の中に家内の賊は防ぎ難しといふ。(王陽明「与楊仕徳薛尚誠書」「山中の賊を破るは易く心中の賊を破るは難し」)余所より来る盗人をば堀をほり壁をぬりふせぐべけれども家のうちにある盗人をばふせぎがたしといふことなり。家といふは我等が五大六根の盗人といふが心に具したる處の盗人なり。天神のいはく、「六賊を心の内に持ちながら用心しても無益なりけり」。我等が六根悉く盗人なり。是を用心せず余所より来る盗人ばかりを用心するなり。
「無盡意。觀世音菩薩摩訶薩。威神之力巍巍如是。」此の一行二字は七難の相結なり。七難といふは大しなり。総じては無量の難を救ひたまふなり。とりわけ巍巍如是の事、甫に云く、重ねて明高累の辞なりといへり(觀音義疏卷上「今言觀音勢力既大加護亦曠。豈止七難而已。當知遍法界皆能救護。故言巍巍。巍巍者。重明高累之辭也。」)
又或人いはく巍巍といふは満足の義なりと云々。観音を称念すれば七難三毒をはなれて一切の願満足するゆへなり。
「若有衆生多於婬欲。常念恭敬觀世音菩薩。便得離欲。若多瞋恚。常念恭敬觀世音菩薩。便得離瞋。若多愚癡。常念恭敬觀世音菩薩。便得離癡。無盡意。觀世音菩薩。有如是等大威神力多所饒益。是故衆生常應心念。」此の五行の文は、常に観音を念ずる人三毒を離るる相を説くなり。先ず婬欲の事、恵心の釋にいはく、・宥の一たび咲るを見て愛欲の水に溺るるといへり。姿美しきを見ては愛欲の念を起こす事しかしながら愛欲の水におぼれて生死の大海に沈むべき修因なり。婬の字をばたはけとよむなり。男は女の色に耽り、女は男の色に貪著してたがひに愛欲を起こして種々の戯れをなすはkまことにたはけたる事なり。如是の婬欲強盛の人も観音を念ずればのちに清浄無染の心となって婬欲の心をはなるべきなり云々。これにつひて首楞厳経十巻あり。禅宗の楞厳呪とて読みたるは彼の經の第七巻に説きたる陀羅尼なり。https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwiZgNGdhvOGAxX9r1YBHajACiMQFnoECBcQAQ&url=https%3A%2F%2Fwww.myoshinji.or.jp%2Feducate%2Fbulletin%2Fpdf%2Fkiyou-vol.01%2Ftoshihiko%2520shungen%2520kimura.pdf&usg=AOvVaw302kL_OjL9ov-1tyLgBhL2&opi=89978449
彼の經には何事を説くぞといふに摩藤伽女、阿難に貧愛を生じたる相をとくなり。摩藤伽女と云は傾城なり。阿難尊者何となくかの家にいたり玉ふ處を捕へて戸を閉めて阿難をいださざるなり。釈尊はるかに是を御覧有て大聖文殊を遣して彼の家にてしばらく神呪を説かせ玉ふ。此の説法をききて貪愛の心を翻して阿難を出し申し我も発心して出家したる相を説けり。されば彼の經に云く、若し人禅定智慧有りと雖も婬欲を断たずば定めて魔道に堕せん、といへり。天台のいはく、當に婬欲を以て輪廻の根本と為す。之に就きて貪欲と婬欲との二あり。今何ぞ婬欲ばかりをはなるる相をとくぞといふに両巻の疏に云、重きもの猶離るる、況やかろきものをやといへり。婬欲は身を失ふこともかへりみず、又賊の宝を惜しむべきことをも思はざるなり。此の如く重き婬欲さへ観音を念じ奉れば念力にてはなる。いはんやかろき貪欲をやと云心にて婬欲を離るる相を説くなり云々。瞋恚の事、一念の瞋恚は俱仾劫の善を焼くといへり。
大集經に云、一念瞋恚を起こせば一切の魔鬼便を得と。(実際には觀音義疏「大集云。一念起瞋一切魔鬼得便。」)両巻の疏に云く、瞋恚多き者は今世に人喜見せずして功徳を失ふ賊瞋恚に過ぎたるは無し。(觀音義疏「瞋恚多者今世人不喜見。如渇馬護水如射師子母。故遺教云。劫功徳賊無過瞋恚。華嚴云。一念瞋起障百法明門。菩薩以瞋乖慈障道事重。大集云。一念起瞋一切魔鬼得便。涅槃云。習近瞋恚。若例婬恚亦應有鬼。」)仍って瞋恚の強盛なる者も観音を念ぜば自然に柔和になるべきなり。愚痴の事。愚痴の二字をば「をろかにかたくなはし(頑し)」とよむなり。又一の訓には頑の字をばたくらたとよむなり。世間の人の「たくらた」といふは愚痴の々字なり。之に付いて三毒の中に貪欲を水にたとふなり。そのゆへは水は一滴なれども處にたまるなり。その如く欲心の者は少しものをも蓄へをくなり。さて瞋恚は火に喩ふなり。火は少なけれども物を焼くなり。そのごとく瞋恚はすこしをこれども事を損ずるなり。さて愚痴をば風にたとふなり。そのゆへは風は虚空の中に常に吹けども、すこし吹く時は知らず。あらく吹く時はこれをしるなり。そのごとく我等衆生朝暮に愚痴のみ振舞ふと雖も、之を愚痴とは知らず強盛にをごって因果を撥無するときしるなり。恵心の云く、八万法蔵を通達すと雖も後世を知らず以て愚痴と為すと。仍って観音の力をたのみて愚痴の心を除くべきなり。恵心の云く、頑器無識なること漆墨に過ぎたり。我等衆生愚痴の心はうるしすみ(漆墨)なんどよりも見苦しきと釋し玉へり。(妙法蓮華經文句卷第四下 天台智者大師説「煩惱濁者。貪海納流未曾飽足。瞋虺吸毒撓諸世間。癡闇頑嚚過於漆墨。」)両巻の疏に曰、愚痴多き者はよこしまに益て諸の見を以て因果を撥無して大乗を毀謗すと(觀音義疏卷下「瞋則有蝎蟲是名多瞋相。與上相違是瞋少相愚癡多者邪畫諸見。撥無因果謗毀大乘」)。諸見とは有の見、無の見等なり(常見と断見)。諸法の道理をよこしまに見なして地獄もなく、極楽もなきなんどといふて因果の道理を押し破りて大乗の経等に因果の道理を明かにしたるをば大に誹謗するなり。俱舎の廿八巻に云、邪見は癡の究竟と(阿毘達磨倶舍論卷第十六分別業品第四之四「殺麁語瞋恚 究竟皆由瞋 盜邪行及貪 皆由貪究竟 邪見癡究竟」)愚痴が究竟して邪見を起こす也。唯常に起こす所の愚痴は僅の愚痴なり。あたって地獄も無く極楽も無しなんどといふて因果撥無するは大愚痴なり。すでに六道四聖の因果有といふ事は三明六通(まとめて宿命通、天眼通、漏尽通、天耳通、他心通、神足通)を得玉へる大聖釈尊の金言なり。而に我が心の本として釈尊の所説を押し破る故に大乗誹謗の人也。俱舎の世間品には四諦三果因果を辨ぜず是を愚痴と云ふ、と。苦集滅道の理を心に懸けず愚痴と云ふなり。仍って常に観音を念じて愚痴を離るべきなり。「常念恭敬」といふは釋にいはく、繫念相続の心也といへり。此の三毒は多生曠劫よりをこりきたる處の煩悩なれば唯易易として名号の一返や二返や経の一巻や二巻などにて滅すべからず。故に一心不乱に相続して観音を念じて三毒を離るべきと云事なり。されば上に常念恭敬と置く下には常應心念と置くなり。是則ち常住不退観音を念じ奉れといふことなり。
次に「便得離欲」等の「離」の字をばはなれるとも読み又はあきらむともよむなり。はなるるとよむときは常の如し。観音を観念すれば三毒を離るる義なり。さてまきらむると読む時は三毒即法界とあきらむるなり。是則ち煩悩即菩提の義なり。そのゆへは三毒といふも餘所より来たるには非ず。ただ我等衆生の一心より出生ずるなり。又菩提と云も我等の一心なり。