5、今回の参詣所最後の第4番札所 江戸札所第28番 金地院です。紺碧の青空に映えて屹立している東京タワーの威容が眼前に現れます。ことのほか、濃朱と真白のコントラストが、くっきりと美しく聳え立っています。この東京タワーの真ん前に来たのは、何十年ぶりでしょうか?懐かしい恋人に邂逅した気分になりました。金地院は、東京タワーと道路を挟んで向かい合わせに立っていました。
江戸札所第28番 勝林山 金地院(東京都港区芝公園3-5-4)
御本尊 聖観世音菩薩
宗派 臨済宗南禅寺派
東京タワーを背にして、金地院の入口に、木の立て札で「山門不幸・当山」と掲げられたのが目に入ります。一礼して石畳の参道を進むと、左右に石柱が立っています。向って左は、「金地禅林」、右は「世外勝境」と刻まれています。愈愈、禅林の世界に入るのだと、暗に思い込みます。この寺も例外なく、戦時中の東京大空襲で伽藍はことごとく焼失してしまったそうです。昭和31年、本堂を再建したそうです。そのため、堂宇は、全てが、鉄筋コンクリートの建造物です。玄関の脇に掲げられている木の表札には、「臨済宗 金地院」とならんで、「大本山南禅寺東京出張所」とありました。
金地院は、元和4年(1618年)二代将軍秀忠から、寺域を賜り、江戸城内の北の丸付近に創建されました。その後、寛永16年(1639年)三代将軍家光の命により現在地に移りました。開山は、円照本光国師で、六歳の時、足利義輝の重臣平賀清兵衛に伴われて、南禅寺にはいり、抜群の学才を認められて慶長10年(1605年) 徳川家康から、建長寺・南禅寺の公帖(住持允許)を与えられ、同年5月、37歳の若さで、南禅寺270世の住持となったほどです。
慶長13年(1608年)、家康の召に応じ駿府(静岡)に行き、禁中並公家諸法度・武家諸法度・五山十刹諸山法度・諸宗諸寺の法度の制定に参画し、また、外交文書を作るなど徳川幕府の草創期の諸政を広範に補佐しました。南禅寺住持としては、応仁の乱で焼失した伽藍の復興に努め、寛永5年(1628年)法堂などを再建、元和5年(1619年)「僧録司」に任ぜられ、五山制度の統轄を通じて南禅寺の権威復活を図り、南禅寺中興開山と称せられるまでになりました。寛永3年(1626年)後水尾天皇から、「円照本光」の国師号を賜ります。禅僧として、政治顧問として、江戸と京都を往復する多忙な活躍の中で、「本光国師日記」「異国日記」など、重要な史料を起こしています。寛永10年(1633年)同寺で、遷化されました。65歳でした。一般に、国師の評判は、権力におもねる一介の政治僧であるかのように言われますが、各分野に優れた功績を残し真摯に精進されたその行履を偲ぶと、甚だ的外れな批評であるといえます。
木彫等身の如意輪観音像(伝明国陳和郷作)を奉安した旧本堂は、「将軍家御祈祷殿」」として、将軍家に事あるごとにご祈祷が行われ、ご本尊のご開帳がある善月祈祷会には、庶民の参詣者で賑わい、切通し金地院の開運三大杓子と呼ばれる、杓子配られることで人気がありました。しかし、戦中、B29の爆撃で、伽藍の全てを焼失。昭和31年、本堂が再建され、新たに刻んだ伽羅一木造の聖観世音菩薩が、祀られるようになりました。(同寺由緒がきより)
戦後、諸伽藍や境内を整備されただけあって、伽藍の建造物は、鉄筋コンクリートで出来ていますし、境内は、入口から本堂、観音堂などに通ずる参道道には、整然とした石畳の道が敷かれています。また、境内の奥に墓地があり、墓地に通ずる歩道の両側の縁に、紫と白色の葉牡丹が、整然と並べ植えられていました。心地よい美しい眺めでした。また、三人の赤ちゃんが、母親の地蔵さんに取りすがる等身大の水子地蔵さんが境内の中に立っているのも、微笑ましく思いました。
金地院の真向かいに見上げるばかりの濃紅と真白のまだら模様の東京タワーが控えているのには驚きました。これも、私にとっては、何かのご縁なのでしょう。ここで、私事なので恐縮なのですが、この東京タワーに纏わるお話しをご紹介したいと思います。お許しください。
江戸札所第28番 勝林山 金地院(東京都港区芝公園3-5-4)
御本尊 聖観世音菩薩
宗派 臨済宗南禅寺派
東京タワーを背にして、金地院の入口に、木の立て札で「山門不幸・当山」と掲げられたのが目に入ります。一礼して石畳の参道を進むと、左右に石柱が立っています。向って左は、「金地禅林」、右は「世外勝境」と刻まれています。愈愈、禅林の世界に入るのだと、暗に思い込みます。この寺も例外なく、戦時中の東京大空襲で伽藍はことごとく焼失してしまったそうです。昭和31年、本堂を再建したそうです。そのため、堂宇は、全てが、鉄筋コンクリートの建造物です。玄関の脇に掲げられている木の表札には、「臨済宗 金地院」とならんで、「大本山南禅寺東京出張所」とありました。
金地院は、元和4年(1618年)二代将軍秀忠から、寺域を賜り、江戸城内の北の丸付近に創建されました。その後、寛永16年(1639年)三代将軍家光の命により現在地に移りました。開山は、円照本光国師で、六歳の時、足利義輝の重臣平賀清兵衛に伴われて、南禅寺にはいり、抜群の学才を認められて慶長10年(1605年) 徳川家康から、建長寺・南禅寺の公帖(住持允許)を与えられ、同年5月、37歳の若さで、南禅寺270世の住持となったほどです。
慶長13年(1608年)、家康の召に応じ駿府(静岡)に行き、禁中並公家諸法度・武家諸法度・五山十刹諸山法度・諸宗諸寺の法度の制定に参画し、また、外交文書を作るなど徳川幕府の草創期の諸政を広範に補佐しました。南禅寺住持としては、応仁の乱で焼失した伽藍の復興に努め、寛永5年(1628年)法堂などを再建、元和5年(1619年)「僧録司」に任ぜられ、五山制度の統轄を通じて南禅寺の権威復活を図り、南禅寺中興開山と称せられるまでになりました。寛永3年(1626年)後水尾天皇から、「円照本光」の国師号を賜ります。禅僧として、政治顧問として、江戸と京都を往復する多忙な活躍の中で、「本光国師日記」「異国日記」など、重要な史料を起こしています。寛永10年(1633年)同寺で、遷化されました。65歳でした。一般に、国師の評判は、権力におもねる一介の政治僧であるかのように言われますが、各分野に優れた功績を残し真摯に精進されたその行履を偲ぶと、甚だ的外れな批評であるといえます。
木彫等身の如意輪観音像(伝明国陳和郷作)を奉安した旧本堂は、「将軍家御祈祷殿」」として、将軍家に事あるごとにご祈祷が行われ、ご本尊のご開帳がある善月祈祷会には、庶民の参詣者で賑わい、切通し金地院の開運三大杓子と呼ばれる、杓子配られることで人気がありました。しかし、戦中、B29の爆撃で、伽藍の全てを焼失。昭和31年、本堂が再建され、新たに刻んだ伽羅一木造の聖観世音菩薩が、祀られるようになりました。(同寺由緒がきより)
戦後、諸伽藍や境内を整備されただけあって、伽藍の建造物は、鉄筋コンクリートで出来ていますし、境内は、入口から本堂、観音堂などに通ずる参道道には、整然とした石畳の道が敷かれています。また、境内の奥に墓地があり、墓地に通ずる歩道の両側の縁に、紫と白色の葉牡丹が、整然と並べ植えられていました。心地よい美しい眺めでした。また、三人の赤ちゃんが、母親の地蔵さんに取りすがる等身大の水子地蔵さんが境内の中に立っているのも、微笑ましく思いました。
金地院の真向かいに見上げるばかりの濃紅と真白のまだら模様の東京タワーが控えているのには驚きました。これも、私にとっては、何かのご縁なのでしょう。ここで、私事なので恐縮なのですが、この東京タワーに纏わるお話しをご紹介したいと思います。お許しください。